サッカーマガジンとの40年
〜連載打ち切りの牛木素吉郎先生にきく〜 (2/4)
(聞き手) 保坂きしこ
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初期の三つのキャンペーン
―― 初期のころのマガジン誌上では、日本のサッカー界に対するいろいろな提案を書いていますね。
牛木 提案というかキャンペーンをしてきました。とくに1968年くらいから1970年代にかけては、三つの大きなテーマがありました。
「アマチュアリズムに反対する」、 「スポーツはクラブ組織でやろう」、 「ワールドカップを日本で開催しよう」。
この三つですね。
★ アマチュアリズムに反対
「アマチュアリズム反対」は創刊当時から1986年に日本体育協会のアマチュア規程が廃止されるまで、ずっと主張し続けました。
その当時は「アマチュアリズム」という理念が日本のスポーツを支配していました。これは「スポーツによって利益を得ない」という倫理的な考え方です。お金をもらってスポーツをしてはいけない、スポーツで有名になったからといってテレビに出て出演料をもらってはいけない。そういう厳しい規則が、日本にはありました。
これは、もともとオリンピックの考え方ですが、オリンピック規則は「オリンピックに参加する選手は、アマチュアに限る」という参加資格規定だったのです。
ところが、日本では、これはすべてのスポーツに当てはめるべき普遍的理念だと考えられていた。日本体育協会アマチュア規程で、全部の加盟スポーツ団体を拘束していました。
これは、サッカーにとっては非常に困る問題です。サッカーはもともと、プロとアマチュアを区別しない考え方です。国際サッカー連盟(FIFA)はプロもアマもいっしょに統轄している。欧州や南米では、同じクラブにプロもアマも属している。ところが、日本サッカー協会がプロを登録させることは、体協の規程に縛られているので、当時はできないのですね。だからといって、日本サッカー協会の管轄外でプロサッカーを作るのは、FIFAの理念と規則に反する。ジレンマだったわけです。
だから、アマチュア規則をすべてのスポーツに押し付けるのは間違っている。「アマプロ共存」がいいんだと主張しつづけたわけです。
★ スポーツはクラブ組織で
スポーツのクラブ組織を作ろうというキャンペーンは、アマチュアリズム反対と関連しています。
欧州や南米では、スポーツは地域のクラブでやっています。そのクラブにサッカーのプロがいます。ところが日本のスポーツは主として学校中心である。このままだと、日本でサッカーのプロを作るのはむずかしい。
クラブ組織のスポーツには、いろいろな利点があります。
学校ではスポーツをする場所を変えることができない。クラブだと、自分に合わないと思えば、クラブをかわることができます。
また、クラブでは、子どもがおとなになるまで、一貫した指導を受けることができます。学校では、小、中、高と学校が変わるたびに、指導者が変わり、指導方針が変わる。クラブでは、そういうことはありません。
クラブには、おとなも子どももいます。トップクラスの選手もいますから、子どもたちは、トップのスター選手のプレーを身近に見て、見よう見まねで伸びていきます。
こういうふうに、いろいろな利点があるのだから、日本でもクラブのスポーツを広めたい。その上でサッカーにプロフェッショナリズムを導入したい。そういうふうに考えたわけです。
いまの東京ヴェルディ1969の前身である読売サッカークラブは、そういう考えをもとに、1969年に設立されました。
★ ワールドカップを日本で
「ワールドカップの日本開催」については、とくに思い出があります。1970年メキシコ・ワールドカップのときに、メキシコ市でお偉方の食事会があった。そのとき、当時のFIFA会長のサー・スタンリー・ルースが、日本サッカー協会会長の野津謙さんに、1986年のワールドカップを日本でやらないか、と話したのだそうです。米国コカコーラの会長さんも同席していて「日本でやるなら、応援しますよ」と言ったそうです。米国コカコーラは、メキシコ・ワールドカップの広報に協力していました。
1986年のワールドカップは、コロンビアでやる予定だったけれども、当時のコロンビアは社会情勢が不安定で、開催は無理かもしれないと言われていました。それに、サー・スタンリーには、欧州と中南米以外の地域にワールドカップを広げようという考えがあったのでしょう。
野津さんは、すぐに賛同して、宿泊していたマリア・イサベル・ホテルにぼくを呼んで「ワールドカップを日本でやろう!」というキャンペーンをできないかと言われました。1986年なら16年も先のことで、十分に準備期間がある。すばらしいアイディアだと思いました。それで、日本に帰ってから、サッカーマガジンに「ワールドカップを日本でやろう」という記事を三回連載させてもらいました。
でも、当時は、野津さん以外の日本サッカー協会の幹部は、若手も含めて、のってこなかった。「野津さんは夢のようなことばかり言う。日本のサッカーの状況では、とても無理だ」という考えでした。
★ 技術論、戦術論、育成論も
―― 日本サッカーの構造改革を,サッカーマガジン誌上で提案したのですね。
牛木 でもボール扱いなどの「技術論」、システムなどについての「戦術論」、あるいは、子どもたちをどう育てるかというような「育成論」なども書いていましたよ。
「技術論」については、個人のテクニックを重視すべきだと考えていました。「テクニックが重要でない」という人はいないのですが、日本では、中学・高校の指導者でも、チームとしての強化を優先しなければならない立場ですから、個人技重視は、まあ、少数派だったと思います。
「戦術論」は、主としてシステム論に偏って書いていたと思います。
1958年スウェーデン・ワールドカップでブラジルが4−2−4という布陣で優勝しました。それまでは、WMフォーメーションと呼ばれていたシステムが主流だったのですが、ブラジルの優勝以来、世界はブラジルのシステムの新しい考えを取り入れるようになりました。ところが、日本では、4−2−4とはどんなものか知らない。それがどんな考えに基づいているのかも分かっていない。それで、新しいシステムの戦い方を研究して、取り入れてもらいたいと思っていました。
「育成論」では、子どもたちを、むやみに鍛えることに反対しました。当時『巨人の星』という劇画があって、子どもに過激な筋肉トレーニングをさせるような場面が人気になっていた。また精神主義で根性を強調するような描き方だった。ぼくは、そういう考えには大反対で、子どもの成長に合わせた育て方を主張していました。当時でも、スポーツ科学の専門家はそういう考え方でした。ぼくは専門家の話を受け売りしたわけですが、社会一般では、子どもについても鍛錬主義がまかり通っていました。
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