日本サッカー協会の創立記念日は9月10日である。この日に日本サッカーミュージアムで殿堂入り表彰式があった。
今回、ミュージアムに掲額されたのは競技者5人、特別功労者2人。競技者は1964年東京と1968年メキシコのオリンピックに出場した選手の中から報道関係者の投票で選ばれた。現在の人たちが、よく知っている顔ぶれである。
しかし、殿営委員会が推薦した特別功労者の坪井玄道、内野台嶺については、知らない人が多いだろう。協会の役員でも「はじめて知った」という人がいた。
このお二人は、明治の終わりから大正時代にかけて東京高師(いまの筑波大)の先生だった指導者である。
坪井玄道は、1901年から2年(明治34年から35年)にかけて欧州に留学し、いろいろなスポーツを学んで日本に持ち帰った。その中でもとくにサッカー(当時はアソシエーション・フートボールと呼んだ)を熱心に紹介し東京高師のサッカー部を創設した。事実上、日本にサッカーを導入した始祖だといっていい。
内野台嶺は、イングランドのサッカー協会から銀のFAカップが贈られたとき英国大使館にそれを受け取りにいった人である。このFAカップがもとになって、いまの日本サッカー協会が創設された。規約の研究や初代会長の推薦に尽力したと伝えられている。事実上、日本サッカー協会の創設者といっていい。
掲額の表彰式には、お孫さんが出席した。孫といっても、すでに、かなりのご年配である。
坪井玄道に代わって出席された坪井三郎さんは、生まれたときには祖父は、すでに亡くなっていた。「おだやかな人だったと聞いています」ということだった。
サッカーだけでなく、いろいろなスポーツを日本に紹介した「学校体育の父」といわれている人で、千葉県市川市の歴史博物館に坪井玄道のコーナーが設けられている。
内野台嶺に代わって出席した内野允子さんは、小学6年生まで、祖父の話を直接、聞いている。
台嶺がサッカーをはじめるようになった、きっかけの話は興味深かった。
東京高師の体育の授業で野球をやっていたが、バットがボールに当たらない。
「お前は小さなボールには向いていない。大きなボールのスポーツをやれ」といわれて、サッカーをはじめたという。
「当時の東京高師でも野球のほうは盛んだったのかな。そんななかでサッカーの普及に努力したのはたいへんだっただろうな」と感心した。
あまり知られていない先人の功績に光を当てることに殿堂表彰の意義がある。 |