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サッカーマガジン 2006年10月10日号
ビバ!サッカー/最終回

サッカーマガジンの歴史的成果

 この原稿を40年間の感慨をこめて書いている。というのは、サッカーマガジンの、ぼくの時評は今回が最後だからである。誌面刷新にともなって連載打ち切りを編集部から通告された。
 ぼくがサッカーマガジンにかかわり始めたのは、創刊のためのテスト版として発行された1966年3月の「スポーツマガジン」サッカー特集号からだ。以来40年間、よくも書き続けたものだ。
 初代の編集長の関谷勇さんは、ベテランの編集者で、駆け出し記者のぼくの生臭い企画を、適当に味付けして聞き入れてくれた。
 ぼくが当時のマガジン誌上で、やらせてもらったキャンペーンの大きなテーマが二つあった。
 第一は「ビッグ・スポーツヘの道」というタイトルで、日本でサッカーを欧州や南米なみに盛んにするにはどうすればいいか、という提案だった。 
  1968年1月号から3月号まで4ページずつ使わせてもらっている。
 内容は@地域のクラブを基盤に、Aプロを導入、Bワールドカップをめざそう、などである。
 そのころの日本のスポーツ界は、学校スポーツが主流で、オリンピックのアマチュアリズム至上主義が支配していた。それに反抗するキャンペーンだった。商業誌としては歓迎できない原稿だっただろうが、関谷編集長は、分かりやすく漫画仕立てにして載せてくれた。
 第二は「ワールドカップを日本でやろう」という、当時としては夢物語のような提案である。1967年8月号を手はじめに、その後、なんども、しつこく主張している。当時のサッカー協会の幹部が、なかなか前へ踏み出そうとしないのを非難する立場から書いていた。
 サッカーマガジンは、協会幹部に読ませるための雑誌ではない。多くの少年たちが愛読している雑誌である。だから、あまり露骨な攻撃にならないように気をつけたが、それにしても、協会批判を載せてくれたのは、気骨のあるジャーナリズムだったといっていい。
 当時の誌上での提案は、いまでは、ほとんど実現している。これは、初期のサッカーマガジンが果たした歴史的な成果だろうと思っている。
 創刊以来、読み続けてくださった読者がいらっしゃるとすれば、厚く御礼を申し上げる。
 さようなら、サッカーマガジン。また逢う日まで。
 さらに、ぼくの記事を読み続けてくださる方がいるのであれば「ビバ!サッカーのホームページ」へようこそ。 


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