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サッカーマガジン 2006年5月9日号
ビバ!サッカー

殿堂入り、新田純興さんの功績

 日本サッカー協会のある東京本郷のJFAハウスのなかに日本サッカーミュージアムがある。そこに、日本のサッカーに貢献した人の功績を記した額を掲げる「サッカーの殿堂」がある。昨年から始まったばかりで、今後、順次加えていくことになっている。その第2回の掲額者が4月に発表になった。掲額者は「競技者」と「特別功労者」に分かれていて、今回発表になったのは特別功労者10人である。
 昔の人から順次選んでいくから、いまのサッカーファンには、なじみのない名前ばかりである。そのせいか、せっかくサッカー協会が発表したのに、新聞の扱いは非常に小さかった。「ベルリン・オリンピックで主将をつとめた竹内悌三さんなど10人」といった調子だ。「野球の殿堂入り」が発表になるときの新聞の扱いの大きさとは大違いで、非常に残念である。掲額は「知られていない功績を知らせる」ところに意義があるとおもうのだけれど…。
 とはいえ、このコラムのスペースで、10人全員の功績を伝えることはできないので、1人だけ、ぼくが非常にお世話になった新田純興(にった・すみおき)さんのことを、簡潔に紹介しておこう。
 新田さんは、現在の天皇杯である全日本選手権を作った人である。神田神保町にあった新田さんの自宅に有志が毎晩のように集まって日本一を決める大会の準備を相談した。第1回大会は、1921年(大正10年)日比谷公園で行なわれたが、ゴールがないので、大塚の東京高等師範のグラウンドから日比谷まで、ゴールを大八車に積んで、みなで引っ張って運んだ。そういう話を、新田さんから直接聞いたことがある。
 ぼくを引き回してくださったのは、退職して時間の余裕ができたころだったようで、当時、原宿にあったサッカー協会によく来ておられた。自分目身が築いてきたといっていい日本サッカーの歴史を記録に留めておこうとする一方で、当時はあまり情報のなかった外国のサッカー事情紹介にも努めておられた。
 協会の地下の倉庫に、ワールドカップ創設者ジュール・リメの回想録のフランス語の原書が、封も切らずに放置されているのを見つけ「貴重な本だから日本語に訳して出版しなさい」と命ぜられたことがある。フランス語が得意な友人に訳してもらって、べースボールマガジン社に頼み込んで出版したのが『ワールドカップの回想』である。
 いまは天皇杯で国立競技場のスタンドが埋まり、ワールドカップにマスコミが大騒ぎをする時代である。その基礎に先人の大きな功績があったことを思い出しておきたい。


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