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サッカーマガジン 2006年2月21日号
ビバ!サッカー

日本サッカー史の謎をさぐろう

 ジーコ・ジャパンについて隅から隅まで知っているファンも多い。ブラジルやイタリアのサッカーについて詳しい人もたくさんいる。サッカー情報があふれるようになったのは慶賀の至りである。
 でも案外、足元の古い話は知られていないのではないか、という気もする。
 たとえば、である。
 日本代表チームがはじめて国際試合をしたのは、いつ、どこでだったか。相手はどこだったか。勝敗は? 得点は? 皆さん、ご存じだろうか。
 答えは1917年(大正6年)、東京の芝浦で開かれた第3回極東選手権競技大会のときである。相手は中国、当時は中華民国といっていた。勝負は日本の大敗だった。
 で、得点は?
 実は、これが謎である。
 当時はテレビはもちろんないし、ラジオもまだない。だから、現場で見ている人にしか結果はわからない。しかし新聞はあったから、翌日付けの新聞には成績が報道されている。それによると日本は5対0で敗れている。
 ところがである。
 のちになって朝日新聞記者で協会の役員の山田午郎さんが協会の会報に「実はあれは8対0だった」と書いている。さらに当時選手として出場した武井群嗣さんも「8対0だった」と書いている。武井さんも初期の協会の役員である。
 どちらが正しいのか?
 ぼくは8対0が正解ではないかと推測している。ここでは、その根拠はおいておくとして、5対0が本当だとしても、なぜ山田さんや武井さんが、のちになって「8対0」と告白したのだろうか? いずれにしても謎である。
 というように、そんなに長くはない日本サッカー史のなかに、いまとなっては分かりにくい「謎」がいくつもある。
 そこで「日本サッカー史研究会」を立ち上げて、いろいろな謎を、ほじくり返してみたいと計画している。
 何のために?
 いや、ただの好奇心である。
 歴史の真実が明らかになれば、それにこしたことはない。学術的にも貢献できるだろう。でも必ずしもアカデミックなことを考えているわけではない。いろいろと憶測をたくましくして歴史の迷路を歩くのも楽しいではないか。
 というわけで、「日本サッカー史研究会」に興味のある方は、ご連絡をいただきたい。連絡先は…。
 ビバ!サッカー研究会 


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