アーカイブス・ヘッダー

 

   
サッカーマガジン 2006年2月7日号
ビバ!サッカー

高校サッカーは何のため?

 「今度は日本代表になって、この国立に帰ってこい」
 1月の高校選手権で優勝した野洲高校の山本佳司(けいじ)監督が、決勝戦のあとロッカールームで選手たちに、こう言ったという。この話をきいて、ちょっと考え込んだ。
 「高校のチャンピオンになったことで満足するな。さらに高い目標に向かって努力しろ」。そういう趣旨だったのだろう。それはそれでいい。でも、言葉の表面だけだと「日本代表をめざすのが野洲のサッカーの目標だ」というように受け取ることもできる。それで「高校のサッカーは日本代表を育てるためのものだろうか?」と考え込んだわけである。
 テクニックのすぐれた野洲高校の選手たちでも、全部が日本代表になれるわけではない。Jリーグで活躍できる者も数人だろう。多くの選手は、もう少し下のレベルの地域のチームでプレーすることになるだろう。そういう選手は将来、仕事をしながらサッカーを楽しみ、あるいは指導者として少年たちを育てるようになるのではないか。そのとき、2006年1月9日の東京・国立競技場は、素晴らしい青春の思い出として彼らの心を豊かにしているだろう。
 そういう生徒たちに学校教育のなかでサッカーを楽しむ場を提供することが、高校サッカーの本来の目的ではないか。そのなかから日本代表選手が出てくるのは、結果であって目的ではない。そういうふうにも考えた。
 決勝戦を「体力の鹿実」対「技術の野洲」というように表現したマスコミもあった。逆に「野洲のサッカーも技術だけではない。体力があればこそ決勝戦を戦い抜くことができた」という意見もあった。サッカーを体力と技術の二つに分けてしまうのは極端すぎる。「野洲の勝利は体力があったからこそだ」という意見のほうが正しいと思う。
 しかし――である。
 サッカーの要素として技術(テクニック)、戦術能力(インテリジェンス)、体力(フィジカル・フィットネス)の3つをあげることができる。そのなかで若いうちに身につけなければならない順番をいえば「技術」が第一だ。
 技術がなければ日本代表になることはできない。技術があれば町のサッカーでもより楽しくやれるし、子どもたちの指導でも「やって見せる」ことができる。
 というわけで、山本監督が「日本代表になって国立へ帰ってこい」と言ったのもいいが、「チームを率いて国立に帰ってこい」といってもいい。草サッカーを楽しみながら、応援のために国立のスタンドに来るのも悪くない。


前の記事へ戻る
アーカイブス目次へ

コピーライツ