ワールドカップの年は、ぼくにとっては、人生航路の標識である。
半世紀近く前、1958年スウェーデン大会にペレが登場し、ブラジルが優勝した。そのストーリーを外電で読み「ワールドカップの素晴らしさを日本の人たちに知らせなくては」と決心した。当時はテレビ中継はなかったし、サッカーの専門誌もなかった。ぼくは新聞記者だったから新聞社に入ってくるロイターやAFPの外電記事を読むことはできた。しかし、それを翻訳しても紙面に載ることは、ほとんどなかった。サッカーに興味をもつ読者が少なかったからである。
1966年イングランド大会の年に、日本初の商業サッカー専門誌として「サッカーマガジン」が創刊された。それ以来ずーっと原稿を載せてもらっている。「ワールドカップを日本で開こう」というぼくの主張も載せてくれた。
1970年メキシコ大会のとき、初めて現地に行った。新聞社が派遣してくれたのではない。休暇をとって自費で出掛けたが、肩書きは特派員で記事は書いた。でも主たる掲載先は「サッカーマガジン」だった。とはいえ、わがままを認めてくれた新聞社に感謝はしている。
というわけで、4年に一度のワールドカップをカレンダーにして人生の大半を過ごしてきた。1994年米国大会の前の年に新聞社をやめ、兵庫県加古川市の大学に勤めたが、サッカーの記事は書き続けた。
2006年。ワールドカップの年である。3月いっぱいで不似合いな教員生活を退いて東京に戻る。「大学をやめたのはドイツ大会の年だった」と、この年を記憶することになるだろう。
これからはサッカーに絞って「もの書き」を続けていきたいと思っているが、振り返ってみると、ワールドカップについて長年、書き続けてきたことは、いまではみな実現してしまったようだ。
新聞の元日特集は、各紙ともワールドカップだった。テレビもワールドカップの正月特番を組んでいた。「ワールドカップの素晴らしさを日本の人たちに知ってもらう」仕事は、大手のマスコミがこぞってやってくれている。
「ワールドカップを日本で」の主張も、2002年に実現した。日本代表が予選を突破して決勝大会に出場する夢も正夢になった。日本代表チームのレベルについては、若い人たちには不満もあるだろうが、ぼくから見れば予想をはるかに上回る向上ぶりである。
これから、ぼくは何を書けばいいのだろうか。ぼくでなければ書けないテーマがあるだろうか。ワールドカップの年を迎えて、それを考えている。
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