読売新聞朝刊の連載「時代の証言者」に日本サッカー協会最高顧問の長沼健さんが登場した。ぼくの読んでいるのは東京発行の最終版で9月5日付けから始まった。投書欄の左肩に掲載されている。
第1回は、2002年ワールドカップが日本と韓国の共同開催になった事情の思い出話だった。それを読んで頭のなかのもやもやが、すっきりしたような思いがした。
紹介されているエピソードの一つ一つは必ずしも目新しいものではない。しかし、いまになって、まとめて紹介されてみると「なるほど」と思うものがある。
日韓共催が決まったのは1996年6月1日にチューリヒで開かれたFIFA(国際サッカー連盟)の理事会だった。当時、長沼ケンさんは日本サッカー協会の会長だった。
日本も韓国も表向きは単独開催を主張していたので共同開催の提案は「意外」だった。日本サッカー協会は2日前の5月30日にFIFAから共催の打診を受け、あわてて現地で協議して「共催を検討する用意がある」と回答した。そういうふうに当時報道されたし読売の連載のなかでケンさんも、そう「証言」している。
しかし実は「共催は既定路線だっただろう」と、ぼくは推測していた。少なくとも関係者の間では共催の可能性が十分に考えられていたはずだと思っていた。それだのに直前になって日本サッカー協会の幹部が、あわてて協議したというのが不審だった。
ぼくが「共催は既定路線」だろうと推測していた根拠については、当時も書いたので詳しくは繰り返さない。政財界のトップの人々が共催を支持する考えを持っているという情報を新聞社や広告企業の関係者などから得ていたので、そう考えたのである。
その点について「時代の証言者」でケンさんは「日韓の政財界から『しこりを残すような形は避けるべきだ』のシグナルは受けていました」と言っている。
「やっぱりそうか」というのが、ぼくの感想である。
今回の証言のなかでおもしろいと思ったのは、協議のときの釜本邦茂さん(当時協会理事、現副会長)の発言である。
「ワールドカップの出場国は70年代まで16カ国だった。それが24、32と増えてきた。日韓で半分にしたって世界の強い連中が16チームも日本に来るんですよ。それを日本の子どもたちに見せてあげたいですよね」
この話は、当時も報道されたのかもしれないが、ぼくは初めて知った。
結果として共催はよかったと、いまさらのように思う。
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