1970年代の後半に、チーム登録制度の改革があった。学校中心の日本のサッカーの体質を変えようと狙ったもので、いまにして思えば、のちのクラブ組織によるJリーグ創設にもつながる一つの革命だった。あまり知られていないようなので、古い話だが書き留めておきたい。
学校単位だった旧規程
「ワールドカップとメディア」についての本を、関西の大学の仲間といっしょに出すことになった。その原稿を書くために、夏休みを利用して東京の旧宅に戻り、書庫に放りこんである資料を探した。
古い雑誌や本を運び出して、次から次へと引っ繰り返したが、探している資料は出てこない。ものをきちんと整理する習慣が身についていない報いである。
雑誌や本のような印刷物は、ぺらぺらとめくっているうちに、思いがけない発見をすることがある。このときも、いろいろな思い出のある記事を見付け、本来の資料探しの目的を忘れて読みふけってしまった。
そのなかに、かつての日本サッカー協会の「チーム登録」についての規程があった。それを見て「この規程を変えたのが、日本のサッカー史の大きな曲がり角だったんだ」と気が付いた。
むかしの規程を紹介しよう。
▽第1種 主として社会人をもって構成されるチーム
▽第2種 単一の大学の学生をもって構成されるチーム
▽第3種 サッカースポーツ少年団
▽第4種 単一の高等学校の生徒をもって構成されるチーム
▽第5種 単一の中学校の生徒をもって構成されるチーム
▽第6種 単一の小学校の生徒をもって構成されるチーム
読めば分かるとおり、当時の日本のサッカーでは、チームは学校単位が当然のこととなっていたのである。
身分別から年齢別へ
ちょっと解説を加えると、第1種の社会人チームとしては、会社単位の実業団チームとともに、クラブチームを想定している。ただし、当時のクラブチームは主として、学校のOBのチームである。そこに現役の大学生が加わることがあるので「主として社会人」と「主として」を入れているわけである。
第2種、第4種、第5種、第6種は学校チームだけを考えている。
第3種の「サッカースポーツ少年団」は、日本体育協会のスポーツ少年団が創設されたあと、少年団の名目なら小学生の試合ができるという解釈で加えた分類である。当時は小学校の対外試合は文部次官通達で事実上、禁止されていたが「少年団」としてなら規制を受けないという解釈で、この分類を加えた。それによって、現在の全日本少年サッカー大会の前身である全日本サッカー少年団大会が開かれた。
現在の規程はどうなっているだろうか。
▽第1種 年齢を制限しない選手によって構成される団体(チーム)
▽第2種 18歳未満の選手によって構成される団体(チーム)
▽第3種 15歳未満の選手によって構成される団体(チーム)
▽第4種 12歳未満の選手によって構成される団体(チーム)
▽第5種 女子の選手によって構成される団体(チーム)
ここには、もう「学校単位」という考えはない。年齢別である。その後に盛んになった女子のサッカーが新たに加えられている。
平木隆三さんの功績
月に2回、千葉県の南船橋で開いている「ジェフ・ユナイテッドのビバ!サッカー講座」のときに、この話をしたら、その日、いっしょに講師を務めたトレーナーの妻木充法さんが「それは、本当に大きな変革でしたね」と感心していた。
この改革を推進したのは、平木隆三さんである。メキシコ・オリンピック銅メダルのときの日本代表コーチで、当時は日本サッカー協会の事務局で慟いていた。
代々木の岸体育館にあったサッカー協会の事務所を訪ねたら、平木さんが改革の原案を作成していて「これを何とか通したいんですよ」と言ったのを思い出した。
「これは、身分制をやめて年齢別にするということです」と平木さんは説明した。
案を見たら「何歳未満」と上限は規定してあるが「何歳以上」という下限の規定はない。
「下は決めなくていいでしょう。子どものチームに大人が入っては困るが、大人のチームに若い人が入ってもいい」ということだった。
日本のサッカーは、ずっと学校を中心に発展してきた。それを、がらりと変えるのだから、抵抗感を持つ人も多かった。その壁を突破した推進力は平木さんだったと思う。
この平木改革は、いつだったのかが思い出せない。そのことを北千住の「ビバ!サッカー講座」のときにも話したら、仲間のひとりが「それは1977年ごろでしょう。ぼくが中学から高校に入る年だったように思う」と教えてくれた。なんでも聞いてみるものである。
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