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サッカーマガジン 2003年7月29日号
ビバ!サッカー

W杯スタジアム批判へ反論
ムダを作るのは国体開会式 

 ワールドカップ2002から1年の機会に回顧ものの特集や連載を新聞などが取り上げた。その中で「ワールドカップのために作ったスタジアムがムダになっている」という批判が目についた。そうだろうか? ムダが多いスタジアムは、国民体育大会開会式のためのものではないか?

博物館などと同じ?
 「ワールドカップのために建設した大スタジアムが、赤字になっている」
 こういう種類の批判が、ワールドカップ1周年の機会に新聞などに掲載された。ぼくも電話で意見を求められ、それが談話として新聞に載ったことがある。新聞は、ごく一部分を都合よく引用するので、ぼくの真意が必ずしも、そのまま反映されてはいるとは限らない。そこで、すでに何度か取り上げた話ではあるが、ここでスタジアム問題をもう一度取り上げたい。
 この件について、日本サッカー協会の川淵三郎会長の談話が新聞に載っているのを読んだ。
 「スポーツのスタジアムは公共の施設で、必ずしも黒字にならなければならないというものではない。地域の多くの人びとの役に立つことがたいせつである。美術館や博物館の多くは公費で作られているが、それがもうからないから、けしからんということはないだろう。スポーツのスタジアムも同じだ」
 こういう趣旨だったと思う。ぼくも、だいたい同じ考えである。黒字になって、もうかるものだったら、民間の会社が喜んでやるだろう。民間ではやれないから、公費で建設するわけである。
 しかしながら、利用者が非常に少なく、赤字垂れ流しで、お役人の天下りのポジションとしてだけ役立っているのでは困る。
 建設にお金が掛かっでも、作ったあとは、収支のバランスをとって運営できなければ長続きはしない。

2万人の入場行進のため
 「建設のときには公費が必要であっても、その後は多くの人の役に立つように、そして収支をつぐなうように運営されなければならない」
 おおまかにいえば、ぼくの意見はこうなる。
 そもそも、ワールドカップで使用されたスタジアムは、ワールドカップのために建設されたのではない。いくつかは、国民体育大会(国体)で使うために建設されている。宮城、新潟、横浜、エコパ、大分がそうである。
 それも、国体の競技のためではなく、開会式のために建設されている。陸上競技のためだけならば、何万人も収容できる観客席は必要ない。2万人の選手団が、正正堂堂の入場行進をするために使うのである。
 国体の主催者である日本体育協会では、いま国体改革を進めているが、これは長い間の懸案でありながら、根本的な改革は難しい。
 国体にトップクラスの選手が参加するようにして、魅力のあるものにしようという考えが強いが、少なくともサッカーでは、これは不可能に近いだろう。Jリーグがあり、国際試合がある。そのスケジュールの合間をぬってトップクラスの選手が、国体に出ることは考えにくい。
 他の競技でも事情は似たようなものであることを考えれば、国体を何のために開催するのか分からなくなる。
 そこで堂々の入場行進に意義を求めるのだろうが、いまではテレビで国体の入場行進を見たいと思う人もほとんどいない。

身の丈に合った競技場を
 実は、ぼくの住んでいる兵庫県でも2006年(平成18年)に第61回「のじぎく国体」を開催することになっている。各地各県持ち回りの順番がだいたい決まっていたのだが、この7月8日に日本体育協会理事会で正式決定になった。
 ぼくは、兵庫国体の準備委員会で総務企画委員の末席に名を連ねていて、及ばずながら兵庫国体には協力しようと思っている。また兵庫は各種のスポーツ施設がほぼ整っていてくふうをすれば、会場にそれほどお金が掛かるわけではない。開会式は既設の神戸ユニバーシアード競技場を使うので、新たに建設費がかかるわけではない。
 そういうわけで、兵庫はこれでいいと思っているのだが、一般論をいえば、国体の開会式はムダである。開会式をやめれば、巨大なスタジアムを建設しなくても立派に国体は開ける。
 陸上競技のために、あるいはサッカーのためにスタジアムが必要ならば、日常の利用のために、手ごろな身の丈にあった規模のものを作ればいい。
 兵庫国体では、夏の大会と冬の大会はいっしょにして、合わせて9月30日〜10月10日に開催することにした。開会式を1回節約するわけである。会場別の開始式は廃止することを検討している。
 ついでに付け加えると、サッカーはこれまでは、秋に行なわれていたが、昨年の高知から夏季大会の競技になった。サッカーを暑いときにすることはないのにと思っていたが、兵庫国体では10月の初めになる。


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