日本代表の親善試合に対する評価は、まちまちになりがちである。親善試合であっても結果を求めるか、強化への過程としてみるかなど判断の基準が違うからである。3月28日のウルグアイとの試合について「ビバ!サッカーは甘すぎる」というご批判を受けたのだが…。
大住さんとの違い
「ビバ!サッカーは甘すぎる」と友人から手きびしい抗議を受けた。日本代表対ウルグアイの試合についてサッカーマガジンの4月22日号に書いた記事に対する批判である。
「ごもっとも」だと思う。
ぼくは日本代表チームのプレーぶりは「すばらしい」とおおいに感心して、そのとおりに書いたのだが。敬愛する友人の大住良之さんは「一言でいえば失望だった」と、まるで反対の意見を書いた。
わがサッカーマガジンの編集長は、故意か偶然か、巧妙にも、この二つの記事を見開きのページに並べて対照的に掲載した。友人が「まるで評価が違うじゃないか」と思ったのは無理もない。
両方の記事を、よく読んでもらえば分かると思うが、ぼくと大住さんのサッカー観には、大きな違いはない。
テクニックとインテリジェンスを重視し、適切な判断で、すばやくパスをつないで攻める。そういうサッカーを求めている点では同じだと思う。しかし、評価の点数は「優」と「可」あるいは「不可」くらいの大差がついた。
評価が食い違った理由は、いろいろだろうと思うが、主要な原因は三つの要求水準の違いではないかと考えた。
第一はジーコ監督のチームづくりの進みぐあいについての要求である。
第二は欧州から呼び戻した選手たちの、この試合への取り組み方への要求である。
そして、第三には親善試合に何を要求するかの考え方である。
ジーコ監督の方法
ジーコ監督の方法は、自分のイメージに合わせて選手を鍛え、チームを作り上げていくやり方ではない。すぐれたプレーヤーを集めて、試合を重ねながらチームをまとめていくつもりだと思う。日本では「チームを作る」という考え方が強いが、ジーコ流の「チームをまとめる」というやり方のほうが、欧州や南米では多いのではないか。
欧州に行っているプレーヤーを加えて「チームをまとめる」には時間がかかる。いまの段階では、がっちりしたチームができていなくても、やむを得ないのではないか、というのがぼくの考えである。
「それにしても、お前の評価は甘すぎるよ」と友人は批判する。
ぼく自身も、ほかの比較的若い仲間たちの評価がきびしく、ぼくの評価が甘いことには気付いていた。
これは、プレーの評価の基準が違うというよりも、比較の対象が違うためではないかと思っている。
半世紀近く、日本のサッカーを見続けてきた目からみると、欧州に行っている選手も、日本でやっている選手もすばらしい。テクニックにしろ、判断力にしろ、昔の選手にくらべれば月とすっぽんである。
しかし、比較的若い人たちは、欧州のトップクラスのチームを見慣れている。アイデアにあふれ、すばやいプレーを、スピーディーに組み立てる。個性がチームプレーに組み込まれ、機械のように正確で、しかも意外性がある。あのサッカーに比べれば、ジーコ・ジャパンの完成度はまだまだだ、ということになる。
もう少し時間を掛けて
世界のスターを集めたレアル・マドリード(スペイン)のようなチームでも、シーズンのはじめには、ちぐはぐなところがある。あの個性のコンビネーションは、リーグの試合を重ねていくうちに磨き上げられていくのである。
海外に出ている日本のスターたちを1試合だけのために呼び返し、4日間ていど、いっしょに練習しただけで、緊密なチームプレーを要求するのは酷だと思う。
いまの日本代表の選手たちは、ユースの年代から長い間、代表としていっしょに育てられ、2002年ワールドカップのためには長期間のキャンプをした。だから比較的まとまりやすい。これから改めてチームプレーが育ってくるには、あまり時間はかからないと思う。しかし、ワールドカップの代表に選ばれなかった中村俊輔を、どう生かすかなどはジーコ・ジャパンにとって難しい課題だろう。
中田ヒデ以外の欧州組に、チームプレーを組み立てようという気構えが乏しかったという批判もあった。自分のプレーを見せようとしただけだというわけである。そういう面もあっただろうが、これも時間をかけて解決しなければならない。
最後に、親善試合だから、結果にこだわることはない、過程を見ようじゃないかと、ぼくは考えている。それに、親善試合は代表チームの強化に役立てるだけでなく、日本の観衆を楽しませるためのものである。ヒデも、俊輔も、稲本も見ることができた、楽しかった、よかったと、これは大甘な考えである。
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