新体制の日本サッカー協会が、地方で年齢別のリーグ戦を行なわせる施策を推進している。長年の懸案に本格的に取り組みはじめたことを評価したい。一方で、日本のマスメディアは勝ち抜き戦が好きで、リーグ戦はなかなか取り上げてくれないという説もあるが……。
半世紀にわたる懸案
日本サッカー協会は、満18歳未満の中高生世代のチームによるリーグ戦を二つの方向で推進している。
一つは高校の有力チームやJリーグ・クラブのユースチームによるリーグ戦である。これは、九州や近畿といったブロック単位で行なわれ、勝ち進めば全国大会に進出することになっている。
もう一つは県あるいは市町村の規模で行なうリーグ戦である。いわば底辺リーグといっていいだろう。
「日本のサッカーの最大の欠陥は勝ち抜き戦ばかりで、リーグ戦が少ないことだ」と警告したのは、デットマール・クラマーさんである。クラマーさんは、東京オリンピックの選手強化のためにドイツから来て、日本のサッカーを根本的に変えてしまった人だ。
1959年に初めて日本へきたとき、新潟で行なわれた実業団選手権大会を見て「これじゃダメだ」と気が付いた。当時、ぼくは東京の新聞社のスポーツ記者だった。新潟市内の陸上競技場で、クラマーさんは記者席にいるぼくたちのところに来て「リーグ方式でやるべきだ」と熱意をこめて説いた。影響力のあるメディアを説得することからはじめようと思ったのだろう。
そのリーグ戦化政策に、川淵三郎会長、平田竹男専務理事の日本サッカー協会が手を付けた。
新しいアイデアではない。実に45年間、半世紀近くにわたって停滞していた懸案である。難しい事情があるから停滞していたわけだが、難しい問題に取り組む新体制の勇断を評価したい。
同じレベル同士で
クラマーさんの提案は、当時もまったく取り上げられなかったわけではない。現在のJリーグの前身である日本サッカーリーグは、クラマー提案の部分的実現だった。部分的というのは、当時の日本のサッカーのトップレベルを構成していた大学チームは参加せずに、実業団(会社チーム)だけでスタートしたからである。また全国リーグだけで、地方にはなかなか及ばなかった。
しかし「強いチーム同士による全国規模のリーグ戦を」という提案は生かされていた。その後、大学チームは伸び悩んで日本のトップレベルではなくなった。会社チームだけだった日本リーグには、クラブ組織の読売サッカークラブなどが加わり現在のJリーグへと発展した。
リーグ戦は限られたチームによる総当たり戦である。「リーグ」は連盟の意味で、連盟に加盟している仲間同士の試合がリーグ戦である。同じぐらいのレベルのチームが仲間を作るわけで、ほぼ同じくらいの強さのチームが、何度も試合をできるところにリーグ方式の良さがある。
このリーグ方式を高校チームでも取り入れようというのも半世紀近く前からの懸案だった。
クラマー提案を受けて、ぼくはサッカーマガジン誌上に、そういう趣旨の記事を書いた。そのころ日本サッカー協会の雑誌「サッカー」の編集を手伝っていたので、そこでもキャンペーンを試みた。
しかし、これはうまくいかなかった。いろいろな試みはあったが、盛り上げることはできなかった。
メディアと教育の壁
地方の高校リーグなどの試みが、うまくいかなかった原因は、いろいろあっただろう。
しかし、基本的には高校サッカーの日本一を決める全国大会が、みな勝ち抜きのトーナメント方式だったことが影響していたのではないだろうか。
夏の高校総体、秋の国体、正月の高校選手権と三つとも負ければ終わりのノックアウト方式だった。
「日本人は、サクラのようにいさぎよく散るのが好きなんだよ。負けてもまた試合ができるリーグ戦よりも、負けたらいさぎよく退くトーナメントが好みなんだよ。だから新聞などのマスコミも、トーナメントを大きく取り上げるんだよ」
こんな説がある。たぶん、朝日新聞社がはじめた高校野球がもとなんだろうが、マスコミ主催のスポーツ大会は、たいていトーナメントである。いさぎよく散ったはずなのに、めそめそ泣いたり甲子園の土を持って帰ったりして、それをマスコミが持ち上げるのは不思議だけど……。
実際には、短期間に集中して開催できるので勝ち抜きトーナメントにするのだろう。短期集中開催は、マスコミの主催イベントとして盛り上げやすいだけでなく、夏休みや春休みを利用できるので学校教育にとって好都合である。
というわけで、日本サッカー協会が、新しい試みを長続きさせるためには、教育制度とマスコミ対策の壁を乗り越えなければならない。
でも川淵新体制の命運を賭けて、底辺のサッカー振興のために新しい工夫を続けて欲しいと思う。 |