ソウル・スタジアムのワールドカップ開幕を迎えて感無量であることは確かである。1970年メキシコ大会から33年目。9回連続のワールドカップ取材だ。あのとき「日本でワールドカップを」とサッカーマガジン誌上でキャンペーンを張ったことが昨日のように思い出される。
招致運動のはじまり
1970年メキシコ・ワールドカップのときに当時のFIFA(国際サッカー連盟)会長サー・スタンリー・ルースが、当時の日本サッカー協会会長の野津謙(のづ・ゆずる)さんに「日本がワールドカップ開催に立候補してはどうか」と勧めた。メキシコ市の高級ホテルで開かれた宴会の席だったと聞いている。そのときアメリカ・コカコーラの会長もいて「日本でやるなるコカコーラも応援しますよ」と口添えした。これは野津さんから、ぼくが直接聞いた話である。ワールドカップ日本開催の「はじまり」と言っていい。
野津さんは、後輩のぼくをメキシコ市のマリア・イサベルホテルに呼んで「日本でワールドカップを開く運動をしてはどうか」と話した。話したというより指示したという感じだった。「それはいい」と、ぼくは、すぐに乗り気になってメキシコ大会が終わると「ワールドカップを日本で」という連載をサッカーマガジン誌上に展開した。
というわけで、サッカーマガジンは「ワールドカップ日本開催運動」の先駆者である。
しかし、このキャンペーンは実らなかった。というのは当時の日本サッカー協会の幹部は、野津さん以外は、みな消極的だったからである。
その理由は「日本代表チームのレベルが低くて開催国にふさわしい試合はできない」というものだった。
そのころ、日本にはサッカーのプロはなかったから世界のプロの精鋭が集うワールドカップのレベルから、ほど遠かったことは確かである。
大きな障害物
しかし、当時の日本代表チームは2年前の1968年メキシコ・オリンピックで銅メダルを取っている。プロのレベルにあと一歩である。
また、FIFAのスタンリー・ルース会長が、日本に立候補を勧めたのは1986年の大会だった。つまり、その当時から16年後である。日本のサッカーを世界レベルにあげるためには十分に時間があった。
そういうわけで、日本サッカー協会の幹部がワールドカップ開催立候桶に消極的なのは「いくじがない」と、ぼくは憤慨した。「ワールドカップ開催を日本のサッカーのレベルアップの起爆剤にすべきだ」というのが、ぼくの考えだった。
しかし、それ以上に大きな障害物が、ほかにあった。
それは、当時の日本の社会では、単独のスポーツの選手権であるサッカーのワールドカップを「国家的事業」として開くことは、とても政府やマスコミに理解してもらえそうもなかったことである。
そのころ、日本の政府が「国家的事業」として応援できるスポーツ・イベントは、オリンピックか、あるいはその地域競技大会であるアジア大会くらいだった。単独のスポーツの大会を「国家的事業」として全面的にサポートすることは、とても考えられなかった。しかも、サッカーのワールドカップはプロの出る大会である。当時、プロのスポーツを政府が応援するようなことは考えられなかった。「アマチュアリズム」という変な怪物が、日本のスポーツ界を支配していたからである。
行政とメディアを
さて、ソウルでの開会式を迎えて、お先棒を担いだ1970年当時のもくろみが2倍の年数を要したとはいえ実現したことに、もちろん感無量である。しかし、それ以上に感無量なのは33年前に考えていた「大きな障害物」を、見事に乗り越えたことである。
ワールドカップの記念切手も、記念貨幣も発行された。いささか過剰な面があるくらいに、警察も府県も市町も協力している。
決勝戦には天皇陛下がおいでになる。開会式への天皇訪韓は実現しなかったが、日本の単独開催だったら開会式にも天皇陛下がご出席になっただろう。
プロを含む単独のスポーツの大会であるにもかかわらず、ワールドカップが国家的事業として認知されたことを示している。世界の常識であるサッカーのワールドカップの意義が、ようやく日本の常識になったと思う。
マスコミの盛り上がりにも、びっくりしている。1970年にメキシコ大会に行ったときは、ぼくの勤めていた新聞社はワールドカップヘの出張を認めてくれなかった。やむなく休暇の形で自費で出掛けて、ちょっぴり原稿を書かせてもらったものだった。2002年の今回は、新聞のワールドカップ紙面が毎日、4ページも6ページもある。
行政とメディアを巻き込むことができたことで、今回の日韓ワールドカップは、二つの成功をすでに確保したと、ぼくは考えている。
|