ワールドカップはサッカーの戦法のシステムの4年に一度のショウ・ウィンドウだった。ブラジルの4−2−4もオランダのトータルフットボールもワールドカップの舞台で世界に披露された。しかし1980年代以降は、ちょっと様子が違うようである、
システムの歴史
日本代表チームの左サイドに、三都主が起用されたり、小野が出場したりする。右サイドは明神だったり、市川だったりする。こういうサイドプレーヤーは、守備プレーヤーなのか、中盤プレーヤーなのか、明確には区別できない。
もともとは、サイドプレーヤーは守備ラインがプレーの基点だった。サッカーのシステムの歴史を見ると、初期の守備ラインは、フルバックと呼ばれる2人だけで、背番号は2と3だった。
1930年代から40年代にかけて、守備ライン2人では、強力な敵のストライカーを止められないということになって、中盤のプレーヤーだった5番のセンターハーフをゴール前に下げた。これが、サードバック・システムである。1950年代には日本でも主流だったWMフォーメーションは、サードバック・システムである。まんなかが5番で、2番は右サイドに、3番は左サイドになった。
1958年のブラジルの4−2−4の登場以後、守備ラインは4人に増えた。中央には5番のほかに、中盤のサイドハーフのうちの1人が下がってきた。4番を下げた国があるし6番を下げた国もある。2番と3番は右サイドと左サイドである。
現在は、背番号は個人によって決めるのがふつうになって、ポジションによって決める習慣は影が薄くなってきている。しかし、ここでは便宜上、古い習慣にしたがって右サイドを2番、左サイドは3番と表記することにしよう。
縦のポジション
ところが、1980年代になって2番と3番を「守備ラインのプレーヤー」とは呼べないようになった。守りのときは守備ラインに戻るが、攻撃のときは最前線まで進出する。中盤で敵の守りを食い止めることもあるし、相手のボールを奪って攻撃を組み立てることもある。つまりタッチラインに沿って、縦に自由に動くわけである。
これはストライカー2人のツートップが主流になった結果である。古典的なシステムでは、最前列のフォワードは5人で、そのうちの両サイドが「ウイング・フォワード」と呼ばれて、オープン攻撃の起点だった。ツートップでは、2人のフォワードが正面に集まるので、この両サイドのウイング・フォワードがいなくなった。そこで、空白になった前線の両サイドへ、右では2番が、左では3番が進出するようになったわけである。
1980年代のなかばに、こういう解説をヨーロッパの雑誌で読んだ記憶がある。その記事には図がついていて、2番と3番のポジションは。タッチライン沿いに縦に示してあった(下図)。
こうなると2番と3番を守備ラインのプレーヤーとはいえない。そうかといって、中盤プレーヤーともいえないし、フォワードともいえない。
「ポジションを守備、中盤、前線に分けて4−3−3とか、4−4−2というように数字で表すことは、もう無理になったんだ」というのが、その当時のぼくの感想である。
流動的なポジション
トルシエ監督が好んで使っているシステムは「フラットスリー」である。守備ラインは3人で横一線に並ぶ。サイドプレーヤーは、縦にどんどん進出する。これは1990年代のシステムといってもいい。
この布陣を、新聞や雑誌では3−5−2と表現している。つまりサイドプレーヤーを中盤に勘定しているわけである。しかし、これには、ちょっと無理がある。三都主はウイング・フォワードのような前線での突破が特徴だし、小野伸二は中盤の内側への切れ込みがいい。明神智和は守りに特徴がある。いちがいに中盤プレーヤーだとはいえない。
というわけでポジションが流動的になった現代のサッカーでは「システムを数字で表すのは、もうやめよう」とぼくは考えている。
ところで、1980年代に、ぼくが読んだヨーロッパの雑誌をもう一度見て、サイドプレーヤー登場の歴史を確かめてみようと思っているのだが、書庫の整理が悪くてさがし出せないでいる。たぶんワールドカップのときの記事ではなく1984年のヨーロッパ選手権のころの雑誌だと思う。とすれば、サイドプレーヤーのこういう動きは、そのころに本格的になったのだと思うがどうだろうか。システムの歴史に詳しい人から教えてもらいたいと思っている。 |