ワールドカップの歴史を大会運営の面から考えてみることもできる。メキシコ、アルゼンチン、スペインなどのラテン系の国で開かれた大会では、各地方のスポーツクラブの人びとが運営の核になっていた。ところが1980年代に、急速に商業化の波が押し寄せてくる。
運営の三つの柱
ワールドカップの運営は、三本の柱によって支えられてきたと、ぼくは考えている。
一つの柱は地域のスポーツクラブである。クラブのボランティアによる人間味あふれる運営を、ぼくはこれまでの取材で味わってきた。
もともと、20世紀に入ってまもなくワールドカップのアイデアが生まれた当初は、ワールドカップはクラブチームの大会として構想されていた。
それが国の代表チームによる大会となった背景には、欧州と南米の国家意識がある。というわけで第二の柱はナショナリズムである。ワールドカップとナショナリズムあるいは国家意識との関係は、もう少し突っ込んで勉強したいと考えている。
ワールドカップ運営の第三の柱は商業主義である。日本では、商業主義を毛嫌いする傾向があって、スポーツの商業化を「悪」のようにいう人がいるが、ぼくは必ずしも、そうは思わない。むしろ商業化を排斥してきた古いアマチュアリズムの弊害のほうが大きかったと考える。
サッカーは、もともとアマチュアリズムには反対で、スポーツでお金をもらうことを「悪」だとは考えていなかった。だからワールドカップは、1930年の第1回ウルグアイ大会のときから入場料収入で黒字運営をし、収益を参加チームに分配していた。
企業がスポンサーになって運営を応援する方法も早い時期から公然と行なわれてきた。これはオリンピックとの本質的な違いである。
曲がり角のスペイン
クラブのボランティアによる運営と、国の代表チームによる盛り上がりと、商業主義による経営。この三つがワールドカップを支えてきた。三つの柱がバランスを保ってワールドカップは楽しいお祭りになった。
このバランスが、1980年代に商業主義が急速に力を増したために崩れた。その転換点は1982年のスペイン・ワールドカップだったと思う。
ヨーロッパでスポーツの商業化を促進したのは「ウエストナリー」という会社である。この会社はパトリック・ナリーというイギリス人の広告業者が、ラグビー・ジャーナリストのピーター・ウエストと組んで作った会社である。ピーター・ウエストはロンドンの新聞「タイムズ」にラグビー評論を書いていた人だ。パトリック・ナリーが、その名声を利用したのだと思う。
ウエストナリーは、スポーツの商業化のために、いろいろな仕組みを作ったが、その一つに「インター・サッカー・フォア」がある。
これはFIFA(国際サッカー連盟)主催の試合に看板広告を付けて資金を集めるプロジェクトである。1979年から1982年の4年間にワールドカップの決勝大会を含む国際試合の広告スポンサーを集める独占契約を結んだ。
1982年のスペイン・ワールドカップは、ウエストナリー社に助けられて運営された。この大会には、クラブ・ボランティアによる地方色豊かな運営と商業化による国際的なスポンサーシップが混在していた。
ISLの登場と崩壊
ウエストナリーの「インター・サッカー・フォア」は、日本の広告会社の博報堂と組んでいた。そのころバブルがふくらんでいた日本の経済界の資金が博報堂を通じて集められた。
しかし、このプロジェクトはスペイン大会で終わりになった。スポーツ用品メーカー「アディダス」の創立者のホルスト・ダスラー氏が世界最大の広告企業である日本の電通と組んでISL社を設立し、ウエストナリーが手がけていた事業を乗っ取ってしまったためである。ISLは「インターナショナル・スポーツ・アンド・レジャー」の頭文字で、スイスに本社を置いていた。
その後、ワールドカップはISL社のリーダーシップによって運営されるようになったと、ぼくは考えている。
ISLによって強化された商業主義によって、三つの柱はバランスを失っていった。ナショナリズムについての議論は別の機会に譲ることにするが、ワールドカップの運営が持っていた地域性のよさは1980年代以降に急速に失われた。
そのピークが、2002年の日韓共催ワールドカップではないか。
日本と韓国には、もともと地域のスポーツクラブの伝統がない。そのためにグローバル化した商業主義がのさばって、日本らしさ、韓国らしさを出せない大会になった。
ところが、ISLは日韓大会前年の2001年に倒産した。ひょっとしたら、日韓大会は商業主義崩壊の転機になる大会かもしれない。
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