「ワールドカップ史への異考」を再開する。とびとびの連載ではあるが第2次大戦前のウルグアイ、大戦後の復興、北朝鮮の番狂わせ、ブラジルの黄金時代、トータル・サッカーなどを、ちょっと変わった角度から取り上げてきた。今回は1978年と1982年の大会運営を…。
アルゼンチン大会
ブラジル黄金時代の1960年代に続いて、1974年の西ドイツ大会ではオランダのトータル・フットボールが天才児ヨハン・クライフとともに、はなやかに登場した。
そこまでの記憶は鮮烈なのだが、その後の2大会については、ぼくの頭のなかはぼんやりしている。なにが重要なポイントだったのか、うまく整理できないのである。1978年のアルゼンチン大会と1982年のスペイン大会のことである。
第11回アルゼンチン大会で、ぼくの脳裏に浮かぶのは、ケンペスのゴールでもなく、アルディレスのスルーパスでもない。思い出すのは、リバープレートの揺れ動くスタンドから舞落ちる雪のような紙吹雪ばかりである。
しかし、競技以外のことでは、いろいろなつかしい思い出がある。
この大会で、ぼくは仲間といっしょにブエノスアイレスに安アパートを借りて根拠地にしていた。他の都市に出掛けるときは、そのつどホテルを探すことにしていた。
ところが、2次リーグの第2戦でアルゼンチンとブラジルがコルドバという町で対戦することになった。南米のライバル決戦で、これは見逃すわけにはいかない。
そこでコルドバのホテルを探したが、どのホテルもブラジル人でいっぱいである。あとで知ったのだが、ブラジルのサポーターたちは、ブラジルが試合をする可能性がある町のホテルをあらかじめ、みな押さえている。その場になって思い立っても部屋があるはずはない。
親切なエデカン
ブエノスアイレスのプレスセンターで、なんとかならないかと右往左往していたら、ぼくのためにホテル探しの電話を掛け続けてくれていた魅力的なエデカンがこう言った。エデカンとは、面倒を見てくれる女性の役員である。
「ホテルを見つけるのは無理ですよ。でも私の実家はコルドバなんです。お嫁にくる前に私の使っていた実家の部屋が空いていますから、そこに泊まってください」
行ってみたら中級のアパートだった。貿易商のお父さんは出張で不在で、かなり年配のメイドが留守番をしているだけだった。
プレスセンターのエデカンが嫁入り前に使っていた部屋は16畳くらいの部屋が2部屋続きで、一つが書斎でもう一つが寝室である。ラテンの国の中流階級の生活は、日本の中流階級だと思っているわれわれの生活よりも、はるかに優雅であることを思い知らされた。
そのロマンチックな部屋で一晩を過ごし、浮世絵の複製をお礼に置いて、メイドにチップをあげただけで宿泊問題は解決した。
そのとき思ったのだが、アルゼンチンのワールドカップは、こういう優雅な中流階級の人びとによって支えられ、運営されていたのである。
親切なエデカンのお父さんは、もちろんコルドバのスポーツクラブの会員で、コルドバのチームのサポーターである。そのお嬢さんが、極東のサッカーファンの面倒を見てくれたのは、ごく自然なことだったのである。
スペイン大会の思い出
第12回スペイン大会は、ブラジルの黄金のカルテットが印象に残っている。ジーコ、ソクラテス、ファルカン、トニーニョ・セレーゾの中盤である。しかしブラジルは2次リーグでイタリアに負けて脱落したので黄金の4人は、技術史と戦術史の面だけに名を留めることになった。
スペイン大会でも、地元の人の親切が忘れられない思い出になっている。アリカンテという地中海沿岸の町に滞在していて、エルチェのスタジアムの試合を見に行ったときの話である。
行きはアリカンテの町からバスだった。スタジアムはエルチェの市街への途中にある。バスの停留所からオレンジ畑のなかをかき分けるようにしてスタジアムに着く。
行きはよいよいである。帰りはこわい。試合が終わったあと、日本ヘテレックスで原稿を送りおわると、もう深夜だ。バスはない。
途方に暮れていると、ボランティアの役員が「ちょっと待っていてくれれば、後片付けが終わったあと送ってあげる」と言ってくれた。
その役員はエルチェのクラブのメンバーだった。エルチェの町に住んでいるので、ぼくの泊まっているアリカンテは逆方向だが、ぼくを自分の車で送り届けて、また逆戻りしてエルチェヘ戻っていった。
アルゼンチンでもスペインでも、大会の運営を支えていたのは、地域のスポーツクラブのボランティアだった。スポーツクラブという文化があり、それがワールドカップを支えていたのである。
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