「ワールドカップ史への異考」と題して世界最大の熱狂の大会の側面を連載してきたが、今回は中断してベースボール・マガジン社を創業した池田恒雄会長の思い出を書かせていただきたい。野球の人であり、出版の人だったが、ぼくにとってはサッカーに関する恩人だった。
マガジンを創刊
「ベースボール・マガジン創業、池田恒雄氏死去、90歳」。読売新聞では、この2段見出しで訃報が掲載されていた。出版社の元社長の死去の記事に2段見出しは異例である。野球界での功績とスポーツに対する貢献を高く評価して、この扱いになったのだろう。2月9日未明に肺炎のため東京文京区の病院で亡くなったという。
「マガジン」といえば池田さんにとっては、まず「ベースボール・マガジン」のことだっただろう。第2次大戦前から出ていた博文館の雑誌「野球界」の編集をしていたが、戦後1946年に独立してベースボール・マガジンを発行した。
それが成功して、途中に苦しい時期もあったが、総合的なスポーツ専門出版社としては日本で唯一といっていい、現在の「ベースボール・マガジン社」に発展した。約30種類のスポーツ雑誌を発行しているというが、中心はやはり野球だっただろう。
サッカーを「マガジン」に加えていただいたのは1966年で創業20年後である。日本で初めての商業ベースによるサッカー専門誌だった。
イングランドでワールドカップが開かれた年で、「スポーツ・マガジン」別冊として出された「創刊準備号」に、ぼくがワールドカップ展望を書いている。いわば、これがぼくのサッカー・ジャーナリストとしてのスタートだった。それ以来、ずーっと「マガジン」に育ててもらってきた。だから、池田さんは野球界の功績者ではあるが、ぼくにとってはサッカーの恩人である。
本を愛した人
2月15日に東京芝公園の増上寺で行なわれた告別式に、ぼくは兵庫県の加古川から日帰りで駆け付けた。スポーツ界の有名人が多数参列するから、ぼくごときが加わっても、たいして役に立つわけではない。でも、40年近くになる恩義を考えると、後の方からでも遺影に手をあわせておかなければと思ったからである。
正面にかかげられていた、その遺影に感動した。こういう場合には正面を向いた肖像写真を使うのがふつうだが、これは床に本を並べたところにしゃがんで、本を1冊、手にとっているスナップだった。人柄が出ているいい写真である。「ああ、社長は本の人だったんだ」と、いまさらのように気が付いた。
野球を愛した人であったことは間違いないし、サッカーを含めて多くのスポーツのために貢献したことも確かである。でも、それよりも「本を愛した人」「スポーツの本を愛した人」というほうが的確ではないだろうか。
ぼくが読売新聞をやめて兵庫県の大学に移ることになったとき、マガジン社の社長室にごあいさつにうかがったら、昭和の初期に出た野球の古い本を手に入れたばかりのところで、その本を手にとって、いろいろと野球の本の話をしてくださった。
ワールドカップの創始者ジュール・リメの回想の翻訳を「貴重な資料だから」とお願いして出版を引き受けていただいたこともある。
本を手にした遺影に手を合わせながら、そういう場面が次つぎに思い出された。
東欧の専門書を紹介
サッカーに関しては「サッカーマガジン」の創刊以外にも貢献がある。
1964年の東京オリンピックの前に、当時、オリンピックで金メダルを量産していた東ヨーロッパ諸国に目を付けてハンガリーやチェコスロバキアなどの社会主義圏のスポーツの紹介をはじめた。こういう国ではサッカーがもっとも大衆的なスポーツである。それで、野球と相撲が中心だった池田さんの頭のなかで、サッカーの世界像も大きくなってきた。そして東欧のサッカーの本の翻訳も出版目録に加わった。
「チャナディのサッカー」は、その一つである。いま日本サッカー協会の会長になっている岡野俊一郎さんの監修で出版された。
著者のアルパト・チャナディ氏はハンガリーの国際オリンピック委員だった。ハンガリーは1940年代の終わりから1950年代の前半にかけてヨーロッパで連戦連勝を続けたサッカー王国である。その国の分厚い専門書が日本語で読めるのはありがたかった。
ハンガリー語やスロバキア語ができる人を池田さんが使って、つぎつぎに翻訳させる。サッカーの専門家ではないし、本職のライターでもないから、間違いもありうるし、文章も必ずしも分かりやすくはない。そこで、分かりやすく間違いのない日本語にリライトする仕事を仰せつかって悪戦苦闘したこともある。
こういう池田恒雄さんの功績を書き留めておきたいと、今回は、ワールドカップの歴史についての連載を中断して、紹介させていただいた。
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