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サッカーマガジン 2002年2月6日号
ビバ!サッカー

ワールドカップ史への異考@
ウルグアイはなぜ強かったか

 日韓共催のワールドカップが近付いてきた。いろいろな連載や特集が新聞や雑誌でにぎやかだ。なかには大会の歴史を振り返っているものもある。このビバ!サッカーでも、ひととおりワールドカップ史のおさらいをしてみようと思い立った。まずは大会が始まる前の話から……。

南米の五輪2連勝
 ワールドカップは「ウルグアイからはじまった」と、ワールドカップについての本には、たいてい書いてある。
 ウルグアイは1924年のパリ・オリンピックのサッカーに南米から初参加して優勝し、さらに4年後のアムステルダム・オリンピックでも優勝した。アムステルダムの決勝戦は南米同士、アルゼンチンとの対決だった。
 ヨーロッパの人びとは「大西洋の向こう側に、すばらしいサッカーがある」とびっくりした。「ヨーロッパだけでサッカーの世界選手権はできない」というので、南米を含めたワールドカップが構想された――というわけである。
 それはいいのだが、1920年代になぜ、ウルグアイがそんなにヨーロッパを上回るレベルのサッカーを育てることができたのか、そのウルグアイは、どういうサッカーをしていたのかは、ぼくには謎である。
 当時、大西洋を横断する民間航空はない。船による航路も、それほど便利であったとは思われない。
 したがって、大西洋をはさんでヨーロッパと南米は、それぞれ独立にサッカーを発展させたに違いない。
 ウルグアイとアルゼンチンが、どのようにしてヨーロッパをしのぐレベルのサッカーを育てたのか。それは、技術的、戦術的にどのようなタイプのサッカーだったのか。文献には「しなやかな技巧と精密な戦術」と書いてあるが、それがどのようなものであったのかを知りたいと思っている。

幻の第1回大会
 ところでサッカーの世界選手権、つまりワールドカップは、ウルグアイの登場よりもかなり前にすでに構想されている。
 国際サッカー連盟(FIFA)が設立されたのが1904年である。これはヨーロッパの国だけによる組織である。
 その翌年の1905年にFIFAは世界選手権を計画した。開催国にはスイスが選ばれた。しかし、参加申し込みが1力国もなく、大会は開催されなかった。
 この「幻のワールドカップ」の計画には、興味深いことがいくつもある。
 第一に、この大会はナショナル・チーム(代表チーム)による大会ではなく、各国のチャンピオン・クラブによる大会として計画されていることである。つまり、現在のワールドカップの原型というよりも、ヨーロッパ・チャンピオンズ・リーグあるいはトヨタカップの原型だといったほうがいい。つまり、サッカーの組織の基礎は、最初から「クラブ」だったということである。ワールドカップもクラブからはじまったのである。
 第二に、この「幻の大会」では参加チームの旅費、滞在費を含めて、経費は開催国が負担し、余りがでればそれを参加国に分配することになっていた。これは、ワールドカップが実現したあとも受け継がれた方法である。自費で参加するのが建て前であるオリンピックとの違いがすでに明確になっているところが興味深い。

第1次大戦の影響
 ワールドカップの構想は、20世紀に入った早々からあったのだが、実際に実現したのは、第1次世界大戦のあとだった。
 ここで、ぼくは一つの仮説を持っている。それは「ワールドカップが実現したのは、第1次世界大戦の影響によるものではないか」ということである。
 世界大戦の影響の一つは「大西洋が狭くなった」ことではないか。欧州で戦っている英仏を支援するために、米国が大西洋を横断して船で軍需物資を輸送した。その結果、大戦後には大西洋の海運が飛躍的に発達したのではないか。それがウルグアイのオリンピック参加につながり、第1回ワールドカップのウルグアイ開催につながったのではないか。
 「大西洋海運史」というような資料を調べてみれば、手がかりがあるのではないかと考えている。
 もう一つ、第1回大会がウルグアイで開かれることになったのも、第1次世界大戦の影響に違いない。
 大戦でヨーロッパ諸国は荒廃したが、アメリカ大陸は逆に繁栄した。ヨーロッパに物資を輸出してもうけていたからである。したがって南米の国には、ワールドカップを開催するための経済的条件が整っていたわけである。
 それにしても――。
 1920年代のウルグアイが、なぜ突出して強かったのかは、よく分からない。読者のなかに、ウルグアイのサッカーの歴史について詳しい方がいたら、ぜひ教えていただきたいと思う。


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