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サッカーマガジン 2002年2月13日号
ビバ!サッカー

ワールドカップ史への異考A
第2次世界大戦前夜の3大会

 サッカーのワールドカップの歴史のなかの話題を、ちょっと変わった角度から取り上げていこうと考えている。前回はワールドカップが始まる前の事情を考えてみた。第2回の今回は、第2次世界大戦の暗雲が覆いかぶさってくるなかで開かれた最初の3回の大会を考えてみる。

センテナリオの掲額
 第1回のワールドカップは、ウルグアイで1930年に開かれた。主会場となったモンテビデオのセンテナリオ競技場は、この大会のために新たに建設されたものでサッカー専用である。
 ワールドカップの創設者であるフランス人のジュール・リメが、開幕前にモンテビデオに到着したとき、スタジアムはまだ工事中だったが、スタンドははっきりと区分され、第一の入り口には「コロンブ」というプレートが掲げてあった。ウルグアイが1924年のオリンピックのサッカーで優勝したときの競技場の名前である。
 第二のブロックには「アムステルダム」という名が付いていた。これは1928年のアムステルダム・オリンピックで優勝した記念である。
 さらに第三の入り口には「ウルグアイ」というプレートが掲げてあった。これから始まる第1回ワールドカップで自国が優勝することを、すでに予定していたわけである。
 この話は、ジュール・リメの書いた『ワールドカップの回想』という本に出てくる。この本の日本語版はぼくが監修してベーズボール・マガジン社から出した。
 ワールドカップの創設者が自分自身が見聞したことを書き留めた本だから、資料として大いに信用しているのだが、この話ばかりは「ほんとかな」とマユにツバをつけたくなる。フランス人らしいエスプリ(機知)による冗談とも思える。もし本当だとしたら、ウルグアイ人のエスプリも、なかなかのものである。

ムッソリーニの熱意
 第2回大会は1934年、イタリアだった。
 この大会は、当時イタリアの独裁者たったムッソリーニが自分の力を誇示する目的で政治的に利用したというのが定説である。その2年後のベルリン・オリンピックをヒトラーがナチズムの宣伝に利用したのと同じという説である。
 ジュール・リメは次のように書いている。
 「デュチェ(ムッソリーニの愛称)は愛想よく、大きさ、重さとも非常に目立つ青銅製のカップを組織委員会に寄贈した。イタリアの優勝によって、この重たい傑作はローマを離れることなく、私たちをほっとさせた」
 すぐれた美術品である黄金のジュ−ル・リメ杯がすでにあるところに重たいカップを押しつけられて迷惑したことを、これもエスプリにくるんで表現しているわけである。 
 ムッソリーニは、ローマで行なわれた試合をほとんど観戦した。貴賓席で社交的なおしゃべりはしないで熱心に試合を見ていたらしい。 
 イタリア大会は、運営面でも財政面でも大きな成功を収めた。現在のワールドカップの基礎を固めた大会だったと言っていい。競技面では地元イタリアが優勝し「めでたし、めでたし」だった。 
 この成功には、独裁者ムッソリーニの熱意が、大いに貢献しただろうと思う。ムッソリーニが大会を政治的に利用したと悪口だけを言って功績を無視するのは「フェアじゃない」という気がする。

動乱のさなかに
 第3回大会が1938年にフランスで開かれたときには、すでに第2次大戦の暗雲が世界を覆っていた。
 日本はこの大会にはじめてエントリーし、オランダ領東インド(現在のインドネシア)と予選を行なうことになっていたが、中国との戦争の泥沼にはまりこんでいて棄権するほかはなかった。日本サッカー協会が初参加を申し込んだときの事情と棄権しなければならなかったときの状況は、日本サッカー史のなかで明確にしておくべきところだが、ぼくは勉強不足で知らない。事情をご存じのかたがいれば教えていただきたい。
 フランス大会の3カ月前に、ヒトラーの率いるドイツがオーストリアに侵攻して併合した。そのために、すでに予選を勝ち抜いて出場権を得ていたオーストリアは参加できなくなった。オーストリアの選手5人はドイツ代表に加わって出場した。
 このときにドイツ代表に加わった5人の選手の立場と心情は、どんなものだったのだろうか。これは、ワールドカップの歴史を勉強しながらぼくが知りたいと思っていることの一つである。
 ベルリン・オリンピックに出場したサッカーの日本代表に、当時の朝鮮(いまの韓国)の選手も加わっていた。世界の舞台でプレーしたいという気持ちはスポーツマンとして当然である。しかし、胸に日の丸をつけて戦うことは本意でなかったに違いない。
 ドイツ代表として出場したオーストリアの選手も、同じような気持ちだったのだろうか。


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