バイエルン・ミュンヘンが制した22年目のトヨタカップをテレビで見て世界のクラブのサッカーが、大きくかわってきたのではないかと思った。サッカーの技術、戦術の進歩とともに、ヨーロッパの統合、テレビ放映権料の高騰、航空路のは発達など、その要因はいろいろある。
他国籍のB・ミュンヘン
かつてのバイエルン・ミュンヘンは、ドイツのサッカーの代表だった。20世紀の後半に、ヨーロッパのサッカーをあこがれの目で見ていたぼくたちの世代にとっては、とくにそうだった。ベッケンバウアーがいた、ゲルト・ミュラーがいた、ルンメニゲがいた。主力はドイツの代表だった。
今回、トヨタカップを制したバイエルン・ミュンヘンは、もはやドイツのチームではない。世界の選抜チームである。フィールドに登場した14人のなかにドイツ人は2人しかいない。西ヨーロッパからはフランス代表、イングランド代表、スイス代表がいる。旧社会主義国の東ヨーロッパからはクロアチア代表がいる。南米からはブラジル勢、ペルー勢がいる。アフリカからはガーナ代表もいる。
すばらしいといえば、すばらしい。しかし「ドイツのサッカー」がお手本だと思っていた極東の世代にとっては、情けないといえば情けない。
プレーぶりも、もちろん、むかしのスタイルではない。ゲルマン魂と走力と理詰めのパスのチームではない。世界のタレントの才能を一つのチームがまとめたのはみごとだが、においたつようなチームとしての個性は感じられなかった。
というより、きびしく極端なプレスによる「コンパクトなサッカー」が、どこの国でも主流になって、スタイルの特徴が失われてきている。個性をのびのびと展開するよりも、個性を殺しながらチャンスをうかがうサッカーになってきている。
幻のワールドカップ
これは新しいようで、実は古くからある問題かもしれない。
FIFA(国際サッカー連盟)は創立当初から世界選手権を創設しようとしていた。そして1905年(明治38年)にパリで会議を開いて、最初の世界選手権をスイスで開催することを決めた。
この大会は計画だけに終わった。参加申し込みがゼロだったからである。いわば「幻のワールドカップ」である。
この幻の大会は、世界選手権といっても、実はヨーロッパだけの大会だった。
またナショナル・チーム(国の選抜チーム)による大会ではなく、各国のリーグ優勝チームを集める「クラブ」の選手権だった。つまり、現在の用語でいえば「ヨーロッパ・チャンピオン・クラブ・カップ」の計画だった。
この計画の「幻の大会要項」に次のような規定があった。
「出場するクラブは、国の代表として国旗のもとに参加する。外国人プレーヤーを含んではならない」
この規定に、第1次世界大戦前のヨーロッパ各国のナショナリズムを読みとることができる。
しかし一方で、いまから100年近くも前に、クラブの外国人プレーヤーが問題になっていたことも知ることができる。
これはジュール・リメ著「ワールドカップの回想」で読んだ話である。
付け加えると、この本は、フランス語のできる友人の協力を得て、ぼくが日本語版にしたものだ。
失われる文化
100年近くも前に、クラブの外国人プレーヤーが問題になっていたのだから、バイエルン・ミュンヘンの多国籍化に、いまさら驚くことはないだろう。
ヨーロッパ全体が一つの共同体になり、国境線が薄くなり、通貨は一つになった時代である。バイエルン・ミュンヘンは、もはやドイツのクラブ・チームではなく、ヨーロッパのプロ興行チームになったのかもしれない。テレビ放映権料の高騰で豊かなチームがますます豊かになり外国からスター・プレーヤーをかき集めることができるので、この傾向にますます拍車がかかっている。
南米代表のボカ・ジュニアーズのほうは苦しい立場である。
ボカにもコロンビアとペルーの選手が加わっている。きびしいプレスによる現代のサッカーの波にも洗われている。
しかし、それでも主力の大半はアルゼンチンのプレーヤーであり、ラプラタ川で「うぶ湯」をつかった男たちの文化のかおりが、プレーぶりに表われている。
それを味わうことができるのが、サッカーの楽しみであり、とくにトヨタカップの楽しみだと思っているのだが、そういうことでは、ヨーロッパのテレビ放映権料が育てたプロ集団には、勝てなくなるかもしれない。
とはいえ、今回のトヨタカップもいい試合だった。プロの真剣勝負の迫力にあふれていた。退場で1人少なくなったボカががんばったので最後まで引きつけられた。
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