アーカイブス・ヘッダー

 

   
サッカーマガジン 2001年10月24日号
ビバ!サッカー

サッカーの魅力を考えるC
狩猟民族向き説は誤りだ!

 「サッカーの魅力」を考え続けている。サッカーは世界の大部分の国で大衆のスポーツになったが、日本と米国では出遅れた。それはなぜかを究明したうえでサッカーの魅力を考えたい。世界中で愛されているスポーツが。日本と米国だけで愛されない理由はないはずだが…。

第二、第三の仮説
 世界に広まったサッカーが、日本では、なかなか大衆的なスポーツにならなかった。なぜか?
 ぼくの仮説は、明治時代に教材として取り入れたことに原因があるのではないかということだった。
 ほかにも考えている原因がある。ぼくの第二の仮説は明治初期に日本へ来た「お雇い外国人」のうち、米国人はゲームとしてのスポーツに熱心だったが、英国人はサッカーのような大衆のスポーツを楽しむ習慣がなかった、ということである。
 さらに第三の仮説も持っている。これは第二の仮説の裏返しのようなものである。日本から米国に留学したエリートの卵たちは、本場で野球の楽しさを覚えて帰った。ところが英国に留学した人びとは、エリートクラスだから大衆的なサッカーはやらなかったのではないか。
 米国帰りの人たちが野球を広めたことは、いろいろな本に書いてある。しかし、英国帰りの人たちがどうだったかは、ぼくはまだ知らない。読者のなかに、考えのある方がおられたら、ご教示をお願いしたい。
 ぼくの仮説は、19世紀の終わりごろに、英国ではサッカーはすでに大衆化していて、エリートクラスはサッカーを楽しまないようになっていた、という思い込みにもとづいている。
 これが独断的な仮説である可能性も十分あるので、頭から信じてもらってはこまるのだが、三つの仮説をあわせて考えれば、日本でサッカーの大衆化が出遅れた原因を説明できると考えている。

民族性説への疑問
 サッカーは狩猟民族のスポーツで、野球は農耕民族のスポーツである。日本人は農耕民族だから野球が盛んになったのだ。こういう説があることを前号でちょっと紹介した。
 前号では農耕民族は「間(ま)」を好むという説を紹介したが、農耕民族は「役割分担」を好むという意見もある。農耕は一つの集落のなかで共同して作業をする。集落の「おさ(長)」の指揮のもとで、それぞれ割り当てられた役割を分担して仕事をする。
 野球も監督の指揮のもと、投手、野手などポジションの役割分担がある。だから農耕民族に向いているというのである。
 「ほんとに、そうかな」と、ぼくは思う。
 第一に、野球の盛んな米国の人びとは農耕民族だろうか。欧州の人びとが狩猟民族だとすれば、その移民の子孫である米国の人びとは、狩猟系ではないのか。
 第二に、そもそも、サッカーの好きな欧州の人たちは狩猟民族なのだろうか。近代スポーツが確立したころは、すでに工業化社会であって、狩猟民族のなごりを求めるのは無理ではないか。
 第三に、19世紀の末にサッカーが普及した東南アジアの国々は、農耕社会だったのではないのか。農耕の国にも、サッカーは浸透しているではないか。
 こういう考えを述べたら、大学の先生をしている友人が一言のもとに「民族性説なんて俗流人類学だよ」と片付けてくれた。

米国での事情は?
 日本で野球が大衆化し、サッカーが出遅れたのは、歴史的、時代的背景のためだというのが、ぼくの説である。サッカーあるいは野球というスポーツの競技的性質にはよらない。あるいは日本民族の特質には関係ないと、ぼくは考えている。
 ところで、次なる疑問は米国ではなぜ野球が国民的娯楽となり、サッカーは日本と同じように出遅れたのか、ということである。
 米国は欧州からの移民の国で英国からの移民が中枢を占めている。だから英国の国技であるサッカーが普及しそうなものだが、そうはならなかった。
 その理由も歴史的、時代的背景によると、ぼくは推測している。
 野球のルールの統一は1845年である。ニューヨークのニッカ・ボッカーズ野球協会が設立されて、ルールを確定した。
 一方、サッカーのルール統一は、1848年、ケンブリッジ大学での会議である。
 つまり、野球のほうがサッカーより早いのである。米国で野球が確立したあとにサッカーが移入されたのだから立ち遅れたのは当然である。
 しかも英国からの移民の国とはいえ、本国との戦争を経て独立したのだから、米国人には英国への対抗心がある。「自分たちの発明したスポーツを守り、育てよう」という気持ちに燃えていたのだと思う。
 さて、いよいよ、この次には「サッカーがなぜ世界に普及したのか」つまりサッカーの魅力について考えることにしたい。


前の記事へ戻る
アーカイブス目次へ

コピーライツ