「サッカーの魅力」について、もう少し考えてみたい。というわけで、今回は前号の続きとして見出しに連載のAと番号を付けた。前号は@だったのだとバーチャルにお考えいただきたい。さて今回は、魅力あふれるサッカーが、日本では、なぜ野球に立ち遅れたのだろうかを考える。
野球と同時に伝来
「サッカーのほうが野球より先に日本に伝えられていたら、きっと日本にもサッカーが盛んになっていたんだろうね」
スポーツ記者の大先輩である川本信正さんから、なんども、こういわれたことがある。川本さんは、陸上競技の出身で、オリンピックなどアマチュアのスポーツについて長年、すばらしい評論を書き続けてきたかたである。サッカーなどプロのあるスポーツにも関心を持って目を配っておられた。
ぼくは若いころ、新聞社でスポーツ記者をしていて、サッカーの記事をなんとか大きく掲載してもらおうと努力していた。だが、いかんせん日本は野球王国で、その当時はサッカーはなかなか大きくは扱ってはもらえない。ぼく自身も、プロ野球の取材に行っている時間のほうが、サッカー場にいる時間よりはるかに長いという状態だった。孤軍奮闘のぼくの顔をみるたびに、川本さんが慰めてくださったわけである。
実は、この川本さんの慰めは歴史的に必ずしも正しいとはいえない。ほんとうは、サッカーも野球もほとんど同時に日本に伝わっている。
サッカーも野球も、1872〜73年(明治5〜6年)ころに日本へ伝えられている。
明治維新のあと日本の近代化のために、政府は欧米先進国から、いろんな分野に、いろんな外国人教師を招いた。チーム・スポーツとして、サッカーと野球が、そういう「お雇い外国人」によって、日本へもたらされた。
明治期に立ち遅れ
野球は東京開成学校に招かれた米国人のホーレス・ウィルソンが教えたといわれている。ことし(2001年)の甲子園の高校野球にウィルソンさんの弟の子孫が招待された。
ウィルソンは英語や歴史の先生だったが、明治5年ごろ「東京第一大学区第一番中学で野球を教えた」という記録が残っているらしい。この中学は、新時代のエリート養成のために設けられた学校で、明治6〜10年には東京開成学校になった。これがのちに旧制の第一高等学校となり現在は東大の一部になっている。
サッカーを伝えたのは、1873年(明治6年)に海軍兵学寮の教師として来日した英国人のダグラス少佐だとされている。ウィルソンが野球を伝えたほうが1年早いから、川本さんの慰めを間違いだとはいえないが、ほとんど差はないというほうが正しいだろう。
ところが、ほとんど同時期に伝来しながら、日本国内での発展は野球のほうがずっとめざましかった。
いまの「甲子園」の前身である全国中等学校野球大会を大阪朝日新聞社がはじめたのは1915年(大正4年)で71校が参加している。
一方、現在の「高校サッカー」の前身、全国中等学校蹴球大会のもとになった大会が大阪毎日新聞社の手ではじまったのは1918年(大正7年)である。「日本フートボール大会」という名称でラグビーといっしょだった。関西から、いろいろな学校が8校(ラグビーは3校)参加しているだけである。すでに野球に大きくおくれを取っている。
普及のルートの違い
つまり明治時代のうちに野球は大きく発展し、大正時代にはサッカーに水をあけていたわけである。
日本以外の国では、サッカーはどんどん大衆のスポーツになり、野球はほとんど普及しなかった。ところが日本ではまったく逆になった。なぜだろうか。これは日本のスポーツ史の大きな「謎」だといっていい。
ぼくはスポーツ史の専門家ではないが、シロートなりに一つの推測を試みて「普及のルートの違いが原因ではないか」と考えた。
東京開成学校からはじまった野球は、その後身である第一高等学校で明治20年代に全盛期を迎えた。当時の高等学校は現在の高校とは違う。現在の高校は中等教育だが、旧制の高校は高等教育の一環で大学に入る前の準備教育である。
一高全盛のあと、明治の終わりには早稲田大学と慶応大学が強くなった。早慶戦は東京の市民の人気も集めた。つまり野球は、大学のエリートのスポーツとなり、しかも東京の一般市民が関心を持つスポーツになったわけである。
サッカーも普及しなかったわけではない。サッカーは全国の学校の先生を養成するための東京高等師範学校(のちの東京教育大、いまの筑波大)が中心になって行なわれていた。その卒業生は、全国の学校の先生になってサッカーを普及させた。
全国の学校を通じて広がったのなら、野球より盛んになっていいはずである。ところが、そうはならなかった。それは、なぜか? その謎をもう少し考えてみたい。
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