日本と韓国の間に歴史が重くのしかかっている。日韓共催のワールドカップは、それを忘れ去るための機会であってはならない。両方の人びとが冷静に歴史を見つめ直し、理解を深めて、後世に引き継ぐための契機にしたい。サッカーの歴史も振り返ってみよう。
あの夏の少年たち
日韓共催のワールドカップが近づくにつれて、新聞にサッカーの特集や連載が目立って増えてきた。そのなかで、ひときわ光った連載を見つけたので紹介しておきたい。
その連載は「あの夏の少年たち」という題で読売新聞の社会面に載っていた。8月14日付けから18日付けまで5回、東京発行の紙面にも、大阪発行の紙面にも掲載された。
「あの夏」は1940年(昭和15年)の8月28日である。
「少年たち」はこの日に行なわれた全国中等学校蹴球大会の決勝戦で、神戸三中を4−0で破って優勝した普成中学の選手たちである。
普成中学は、当時は京城と呼ばれていた韓国のソウルからきた朝鮮代表だった。
連載は、その選手たちのその後を追い、日韓のサッカーの歴史の忘れられかけた1ページを描いている。
ここに全部を紹介することはできない。読み落とした人は、詳しい内容を図書館などで読売新聞を探して読んでもらいたい。
一つだけ紹介すると「ああ、これは、ぼくが調べておくべきことだった」と思ったエピソードがあった。それは、普成中学がソウルへ持ち帰った優勝旗が、その後、どうなったかである。
全国中等学校大会は、いま正月に首都圏で行なわれている全国高等学校選手権大会の前身である。
普成中学が優勝した翌年に国際情勢が厳しくなったため大会は中止になり、その年の暮れに日本は全面的に太平洋戦争に突入した。
朝鮮戦争に消える
戦争が終わったあと、戦前の中学校大会は、学制改革を受けて高校選手権として復活した。大会の回数は、そのまま受け継がれた。
日本の敗戦によって朝鮮は解放された。南の韓国と北の朝鮮民主主義人民共和国に分断されたけれども、独立を回復した。したがって、朝鮮代表が日本の大会に参加することはなくなった。普成中学がソウルへ持ち帰った優勝旗は日本へは戻ってこなかったのである。
韓国でも学制が変わり普成中学は普成高校となった。優勝旗はその後も普成高で保管されていたらしい。
だが1950年にはじまった朝鮮戦争でソウルは一時、北側の軍隊に占領された。
普成中の優勝メンバーだった高継聖さんは1953年に休戦協定が結ばれると、母校を真っ先に訪ねた。優勝旗は「北朝鮮の兵士がふろしき代わりに使って、持ち去ってしまった」という話だったという。
ぼくは、高体連のサッカー部に協力して「高校サッカー60年史」の編集を手伝ったことがある。毎日新聞社の岩谷俊夫さんがまとめた「40年史」がすでにあって、それに継ぎ足しただけではあったが、普成中学の優勝についても、優勝旗が海峡を渡ったことについても知っていた。だから「その優勝旗は、その後どうなったのか」を、そのときに追求すべきだった。
第2次大戦中にイタリア・サッカー協会が、ワールドカップのジュール・リメ杯を守り通した話があるだけに気が付くべきだった。
歴史のために書く
優勝旗そのものに、それほどこだわっているわけではない。必要以上に感傷的になっているのでもない。
「もの」としては、ふろしき代わりにもなる1枚の布切れである。
しかし、それにまつわる歴史があり、民族の思いがあり、日韓のサッカーマンの人間としてのつながりがある。そこに考えが至らなかったのは、ぼくの未熟である。
読売新聞の連載は、ぼくの思い至らなかったことに気付き、日韓の関係者にインタビューして調べている。そのことに深く感動した。
「あの夏の少年たち」の多くは二つの戦争によって、わかれわかれになっている。インタビューできたかたがたもすでに80歳に近い。20年ほど前に、ぼくが気が付いていれば、もっと多くのかたに、もっとしっかりした記憶をもとに、お話いただけたかもしれない。
ただ、言い訳めくけれども、20年前に、ぼくが読売新聞の記者として取材していたころは、サッカーの記事を、そんなに大きく紙面で扱ってはもらえなかった。取材にもなかなか行かせてもらえなかった。そんな中で、なんとかサッカーを正当に扱ってもらおうと新聞社内で悪戦苦闘していた。サッカーの連載を社会面で扱ってもらえる時代が来たなんて夢のようである。
連載の最後に「梅崎隆明」と担当者名があった。梅崎記者に手紙を書いて感動を伝え「ビバ!サッカー」で紹介したいと了解を求めた。
歴史のために書き残すこと。それが貴重である。
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