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サッカーマガジン 2000年11月29日号
ビバ!サッカー

日韓サッカー記者交流の成果
ジャーナリスト会議の舞台裏

 11月7日〜8日に新潟で「日韓サッカー・ジャーナリスト会議」を開いた。あと600日を切った2002年ワールドカップへの問題点を双方向で洗い出したところに意義があったと思う。その内容は別に紹介するとして、ここではその裏側を紹介しておこう。

双方向の情報交換
 新潟で開かれた「日韓サッカー・ジャーナリスト会議」は、パーティーの席での会話から生まれた。
 「韓国のサッカー記者を招いて、2002年のための情報交換をするというのは、どうでしょうかね。おたがいに話を聞きたがっているんじゃないですか」
 こういう僕の雑談を聞いていた新潟のワールドカップ準備の関係者が、2カ月ぐらいたってから電話を掛けてきた。
 「日韓のサッカー記者の交流会議を新潟でやりませんか。できるだけの応援をしますよ」
 というわけで「よしやろう」という気になったわけである。
 昨年の11月にソウルに行ったとき韓国のスポーツ記者の長老の一人である趙東彪氏に相談を持ち掛けた。趙氏とは1964年の東京オリンピックのときに初めて会って以来、30年以上にわたる付き合いである。
 趙氏が窓口になって、韓国からサッカーに詳しいジャーナリストを招く。こちらは、サッカー専門のライターで作っている「日本サッカーライターズ協議会」を窓口にして準備する。そういう取り決めになった。
 いろいろ難しい問題もあったのだが、地元の新潟県と地元紙の新潟日報が乗り気になってくれて11月7日、8日に「オークラ・ホテル新潟」を会場に開催することができた。東京や関西の記者たち、ワールドカップの10の開催地の記者や関係者が集まって、ぼくの考えていたのを大きく上回る盛大な会議になった。

30年前の友情
 日韓のサッカー記者交流を思いついたのには古いいきさつがある。
 1970年のメキシコ・ワールドカップの予選が、その前年にソウルで行なわれたことがある。そのときに数人のサッカー記者がソウルに取材に行った。
 日本ではサッカーへの関心度が低かったころだから、ワールドカップ予選に特派員を出す新聞社は少なかった。また日韓の関係も難しかった時代で、ソウルに出掛けること自体が簡単ではなかった。それで数人のグループが、初めてのソウルでうろうろするはめになった。
 そのときに、韓国の新聞各社のサッカー担当記者たちが非常に親切に、いろいろと教えてくれた。そして小さなパーティーを開いて歓迎してくれた。日本の歌を口ずさむことさえはばかられる日韓関係の雰囲気のなかで、夜の12時を過ぎると戒厳令で外出禁止となるほど北との緊張した対立が続いているなかで、日本のサッカー記者を暖かく迎えてくれた韓国のサッカー・ジャーナリストの度量の大きさに非常に感激した。
 「その恩返しをしたい」と、かつてビバ!サッカーにも書いたことがある。恩返しの機会が30年以上たってやってきたわけである。
 いまでは時代は大きく変わって、日韓の間は自由に往来できる。インターネットで情報は大量にはいってくる。しかし、本当に重要な情報の背景は、お互いに顔を合わせて話し合わないと分からないのではないか。そのための機会を作ってくれた新潟の関係者に感謝している。

共同して戦おう
 「日韓サッカー・ジャーナリスト会議」では、2002年へ向けてのいろいろな問題点を、ほとんど洗いざらい取り上げた。どれも簡単に解決策が見つかる性質のものではないがお互いに問題点を認識しあっただけでも意味がある。
 最後の締めくくりのシンポジウムのなかで、韓国側のパネリストが、次のような発言をした。
 「2002年のワールドカップではFIFAが、いろいろな権利をヨーロッパのエージェントに与えてしまっているので、開催国は非常にやりにくくなっている。マーケティングの権利はISLという会社に売り渡され、テレビ中継を制作するのはHBSという組織になり、宿泊を扱う仕事はイギリスの代理店に独占させている。開催国の裁量でできる仕事の範囲は非常に狭い。そのために被る不利をはねかえすために、日韓両国は一体になって戦わなければならない」
 これは入場券売出し延期などの背景にある重要な問題である。
 FIFAは金儲けの下請けをヨーロッパの代理店にさせ、日韓の組織委員会は、その孫請けの仕事ばかりをさせられている実情ではないか。
 これはワールドカップ招致の段階で決まっていたことで、いまさら変えられるわけではないにしても、日本側の組織のJAWOCがFIFAとの交渉でへまを繰り返しているという報道が続いているおりだけに、日韓が協力してヨーロッパの言いなりにならないようにしようという意見に、心の中で拍手した。


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