韓国対日本の試合を見るためにソウルへ出発する前日、関谷勇さんが亡くなったという報せをファクスで受け取った。サッカー・マガジンの初代編集長だった人である。日本ではじめて、サッカー専門の商業雑誌を創刊した人として、その名を歴史に留めなければならない。
マガジンの創刊
勘定してみると、いまから36年前の1965年の暮れだったに違いない。ベースボール・マガジン社の関谷勇という人が訪ねてきた。当時、ぼくは東京の読売新聞社で駆出しのスポーツ記者だった。
これも勘定してみると、その当時の関谷さんは55歳くらいのはずである。でも、相当の大先輩のようにお見受けした。東京オリンピックの翌年でサッカーの日本リーグがスタートした年である。
この日本サッカー・リーグには、二つの意義があった。
第一は、当時「実業団」といっていた企業チームによるリーグだったことである。大学から実業団へ時代が流れていた。その流れがプロ化に向かいJリーグにつながっている。
第二は、プロ野球を別にすれば、日本ではじめての長期の全国リーグだったことである。ホーム・アンド・アウェーの全国リーグは、いまでは当たり前のことだが、当時は日本では画期的な試みに、ベースボール・マガジン社が注目した。機をみるに敏な当時の池田恒雄社長の思い付きに違いない。「スポーツ・マガジン」という題号で出していた雑誌でサッカー特集をすることになった。
「サッカー・マガジン」創刊のテスト版である。その編集を担当したのが池田社長の旧友だった関谷さんだった。
「サッカーについては何も知らないのでアイディアを出してほしい」というのが、若いぼくを訪ねてきた関谷さんの話だった。
本物の編集者
サッカー・マガジンの創刊準備号になったサッカー特集は「スポーツ・マガジン」の1966年3月号として2月17日に発行されている。
この準備号に、ぼくは「ワールドカップ物語」という記事を書いている。これは間違いなく、一般大衆に向けてワールドカップを紹介した第1号である。それ以前にも、協会や クラブの機関誌としてサッカーの雑誌が出たことはあるが、町の書店で販売されるサッカー専門誌は、これが初めてだった。
この特集号が好評で売れ行きもよかったので、いよいよ「サッカー・マガジン」を月刊で出すことになった。
そこで関谷さんが、また訪ねて来られた。
「月刊で出すんですか。まだ日本には、それほどサッカーの好きな人はいませんよ。年に4回、季刊がいいところじゃないですか」と、ぼくが心配した。雑誌が出てすぐ、つぶれると、かえって評判を落とすんじゃないかと思ったわけである。
関谷さんは心やさしい人だった。控えめに笑って言った。「岡野さんもそう言いました」。現在の日本サッカー協会・岡野俊一郎会長のことである。
「月刊で成り立たないぐらいなら季刊では成り立ちませんよ」
この言葉で「関谷さんはプロフェッショナルだ」と思った。しょせん、岡野さんも、ぼくも、雑誌作りはシロートである。おだやかに、控えめに話す方だったが、関谷さんは編集者として筋金入りだった。
記録に残る業績
「サッカー・マガジン」創刊号は1966年5月12日発行の6月号である。この号に、ぼくは2本の記事を書いている。一つは「サッカーの記録の付け方」で、もう一つは「ワールドカップ予想」である。1966年のイングランド・ワールドカップが開かれる直前だった。
「サッカー・マガジン」は、つぶれるどころか、あれから35年も続いている。
関谷さんは、プロの編集者魂を持った人だった。戦前に講談社で当時、子どもたちに広く読まれていた「少年クラブ」の編集にたずさわり、のちに博文館の「野球界」「野球少年」に移り、戦後、ベースボール・マガジンが創立されて、そこに参加した。
関谷さんが野球雑誌の編集をしていたときに始めたことの一つに「ラジオ実況放送の誌上録音」がある。
野球のラジオの実況中継を、活字にして雑誌に載せるわけである。それで野球の内容が記録に残る。
関谷さんは、根っからの編集者で自分で原稿を書くことはしなかった。しかし退職されたあとに「じー、じー」という題の家庭雑誌を自分で書いて手書きのガリ版(謄写版)刷りで発行して、ぼくのところにも送ってくださった。その内容が、またすばらしいもので、日本の出版史の貴重な記録にもなっている。
サッカー・マガジンの3代目編集長は現在、ベースボール・マガジン社の資材部長兼総合企画室長の堀内征一さんである。堀内さんは関谷さんの愛弟子だった。
この2人に、ぼくはジャーナリストとして鍛えられたと思っている。
|