「地城に総合型のスポーツクラブを」という動きが、文部省などのお声がかりで各地に起きている。サッカーでは、30年以上前から叫ばれてきた考えに、ようやく陽が当たってきたのかとも思うが、一方で小学校区単位の市民の努力がつぶれていくことも心配である。
スポーツ社会学会
「日本スポーツ社会学会」の大会が3月26日、27日に東京の上智大学で開かれた。講演やらシンポジウムやら研究発表やらのなかで、サッカーを話題にした人がたくさんいた。
「サッカーの波が学会にまできたか」と長年、普及を願ってきた一人として感無量である。
そのなかに「サッカー・スポーツ少年団の成立展開過程―塩竈市月見ヶ丘を事例にして―」という研究があった。発表したのは東北大学大学院教育学研究科の熊谷正也さんである。細かく、地道に調べてあって、なかなかよかった。
かいつまんで紹介すると、大筋は小学校区で活動していた個別の少年サッカークラブ(少年団)が、市全域を対象とした広域のクラブ作りに呑み込まれてしまう話である。
宮城県塩竃(しおがま)市の月見ケ丘サッカー・スポーツ少年団は、小学校の区域で1977年から活動していた。熱心な運営担当者と父母の協力で成り立っていた。市内にはほかにも小学校区を基盤にしたサッカー少年団があって、それぞれ独立に活動していた。
このいくつかの少年団から優秀選手を選抜して、1982年に塩竈FCが編成された。最初は大会に強いチームを送るための臨時の選抜チームで、日常的な活動は従来どおり各少年団が独立に行なってきた。
ところが、いろいろないきさつを経て、個別の少年団は塩竈FCジュニアに統合されていって、1989年には、個別の少年団は成り立たなくなってしまったらしい。
清水と塩竈の違い
初期の塩竈FCの編成は、いわゆる「選抜FC」である。各地区別の少年団は、そのままにしておいて、夏の全日本少年サッカー大会に出場するためだけのために、選手を選抜してフットボールクラブを編成して登録し、大会がおわると、選手はもとの小学校区のチームに戻って活動する方式である。これは、強いチームを作って大会に勝つための「ずるい」やり方だから、いろいろな批判があった。サッカー・マガジンのこのページで、この問題を何度も取り上げたことがある。
「選抜FC」のもともとの動機は「大会で勝つため」ではあるが、ほかにも理屈はついていた。
一つは「選手育成のため」で、素質のある子どもを集めて、高いレベルの指導を受けさせることである。日本サッカー協会のトレーニングセンター(トレセン)と表裏一体の考え方だ。もう一つの理屈は「地域のクラブ作り」の母体にする狙いである。サッカーで「地域のクラブを」という声が上がった1960年代の初めからで、Jリーグの発足よりずっと古い。
「選抜FC」の第1号は、静岡県の清水市だった。ここでは小学校チームとしての少年団を大事に育てて「清水FC」を編成しても母体の小学校チームはこわさなかった。
塩竈の方は「地域のクラブを」の理想に燃えて、母体の地区(小学校区)の少年団を吸収してしまったらしい。元を作るために子を失ったのではないかと心配である。
普及のための努力
スポーツ社会学会での発表を聴きながら、ぼくは少年サッカー育成の歴史を思い返していた。
発表された研究は地域のサッカーを追ったものである。だが、その背景には全国的なサッカー普及の動きもある。日本サッカー協会と地方のサッカー協会、協会の役員と一般の指導者が、対立したり、協力したりしながら、たどった足跡がある。
これは京都と兵庫で1963年に「サッカー友の会」が結成されたのにはじまっている。友の会は、学校や企業やサッカー協会ではない市民の力を結集することを目的としていた。友の会では、この当時から「誰でも参加できるクラブの組織」を目標にかかげていた。それが少年サッカースクールの運営を通じて、一方では神戸FCのような法人組織のクラブになり、一方では清水に代表される小学校区の少年団育成になった。
この運動は、強化よりも普及にねらいがあった。日本代表になるようなトップレベルの選手を育てるのは直接の目的ではなかった。サッカーを広く日本に普及させ、子どもたちがサッカーを楽しむ機会を広げたいと考えていた。この一連の動きは、日本サッカー協会が発行していた雑誌「サッカー」の1960年代の号に、かなり克明に記録してある。
「選抜FC」が地域のクラブになり、Jリーグのクラブが少年たちを育てるのもいい。しかし小さな区域のクラブの存在を危うくし、町の指導者の意欲をそぐようでは、やがて子だけでなく、元も子も失うことになりかねないと懸念している。
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