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サッカーマガジン 2000年4月5日号
ビバ!サッカー

2002年へ道が見えた!
成果があった日本対中国戦

 日本代表チームの2002年への道筋が見えてきた。神戸で行なわれた中国との国際試合は0対0の引き分けだったが、内容は十分に見応えがあった。トルシエ監督の狙いは明確だった。欧州から戻った3人のプレーも立派だった。みながしっかりした考えで戦ったことを評価する。

欧州トリオの奮戦
 3月15日夜、神戸のユニバーシアード競技場は、4万の観衆でふくれあがった。このスタジアムが満員になることはめったにない。
 異常人気のもとは、この日本対中国の試合のためにヨーロッパから戻ってきた中田英寿、名波浩、城彰二のそろい踏みである。
 ヨーロッパでの過密日程の隙間をぬって2〜3日前に帰国し、試合が終われば、また飛び戻るという強行軍で3人がどこまでがんばれるか、正直いって疑問に思っていた。
 国際試合とはいっても、タイトルのかかった試合ではない。そこへ3人を呼び戻すのが、日本代表の強化のためだけだと信じるほど、ぼくは純情ではない。観衆を集めるためでもある。テレビの視聴率のためでもある。スポンサーへの義理立てもある。それは、それでいい。
 だから、ある程度の顔見せで義理を果たせば、交代させるだろうと、ぼくは見ていた。
 ところが――。
 3人は最後までがんばった。城は残り2分で退いたが、これはむしろ交代出場した三浦カズのほうの顔見せである。
 ヒデこと中田英寿は、チームをリードし、みごとなパスを出した。イタリアで2シーズン目、センスは鍛えられ、みがかれている。
 名波はチャンスにはドリブルでどんどん抜いて行き自分をアピールした。
 城は3本のシュートを放ったが、いま一歩だった。しかし立ち上がりから積極的だった。

外人監督の対抗意識
 ヨーロッパからはせ参じた3人が最後まで奮戦したことに乾杯したい。これぞプロフェッショナルである。
 この3人をトルシエ監督が、ほとんどフルにプレーさせたことにも乾杯したい。ぼくは「疲れているだろうに」と同情したが、ぼくの考え方がアマチュアだった。
 試合が終わってから感じたのだが、トルシエ監督は、この試合の勝負にかなりこだわっていたのではないだろうか。スポーツ新聞が憶測するような理由とは違う。日本代表の監督としての自分の進退がかかっているから勝負にこだわったのではなく、中国代表のボラ・ミルティノビッチ監督との、外人監督同士の張り合いがあったからではないだろうか。
  ボラ・ミルティノビッチは、今年になって中国代表の監督に就任したメキシコ、コスタリカ、米国、ナイジェリアを率いて4度のワールドカップに出場し、それぞれ上位に進出させた実績を持っている。そのボラが、豊かな潜在力をもつ中国のサッカーを変えようとしてきているのに日本代表のトルシエ監督は対抗意識を燃やしたのではないか。
 後半、トルシエ監督は中盤の小野伸二を引っ込めて左サイドだった名波を進出させ、さらに中村俊輔を注ぎ込んだ。
 これは、逆襲を食って失点するリスクを覚悟したうえで、ゴールを狙って勝負に出たものである。
 安全第一ではなく、あえて勝負に出たトルシエ監督の「志」というか「野心」に敬意を表したい。

トルシエの狙い
 日本が優勢でリズムを握っていたが0対0の引き分けに終わった。それで「決定力がない」ということになったが、これは監督のせいではない。試合後にヒデが「チャンスに決めるのはトルシエじゃない。選手がやらなきゃ」と言ったのは名言である。
 後半41分ごろ、ゴール前の敵の守りの網のなかでフリーになった中山ゴンの足元に、ヒデがはやいスルーパスを出した。
 非常にむずかしいパスだった。ゴンがわずかなスペースを得たのは一瞬である。ヒデがチャンスを感じたのも一瞬である。その一瞬のうちに2人の意識と呼吸が合わなければならない。
 パスの球足は非常にはやかった。そうでなければ敵の守備網に引っ掛かってしまう。強いボールが足元にきたゴンは、処理し損なってシュートできなかった。
 こういう失敗を積み重ねながら、2002年へのチームを作っていくために、この日の試合があったということができる。だから0対0でも成果は十分だった。
 昨年のトルシエの目標はオリンピック出場権の獲得だった。その目標を達成する過程で若い才能をさがして伸ばした。
 今年はベテラン選手を加えてA代表をまとめていく。目標は10月のアジアカップである。それが2002年へつながっていくようにする。
 そういう道筋と意欲が、トルシエの指揮ぶりにも、選手の戦いぶりにも明確に見えていた。


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