2月のはじめに相次いで二人の悲報を聞いた。一人は東京オリンピックの前に日本代表チームの監督だった高橋英辰氏、もう一人はメキシコ・オリンピック銅メダリストの宮本輝紀氏である。最近のはなやかなサッカーブームの陰に埋もれがちな二人の功績を改めて偲んだ。
記者のロクさん
元日本代表監督の高橋英辰(たかはし・ひでとき)さんが2月5日に亡くなられた。83歳だった。後輩のぼくたちも「ロク」さんと呼んで親しくさせていただいた日本のサッカーの大先輩である。大正6年生まれだからロクさんと呼ばれたという説もあったが、本当は大正5年生まれである。
ぼくたちにとってロクさんは取材先であると同時に仲間でもあった。
南米選手権コパ・アメリカを見にアルゼンチンに行ったときに「ジャーナリストのロクさん」と一緒になったことがある。1987年である。
そのころ、ぼくは新聞社に勤めていてニューヨーク駐在だったので、ちょっとひと飛び、南米サッカーを見学のつもりだった。
「日本からわざわざ見にくるのは、専門誌の若い記者ぐらいだろう。今度こそは、日本の記者仲間では最年長だろうな」と考えながら、ブエノスアイレスの空港に着いた。
大先輩のあとについてサッカー取材を長年続け、ぼくもかなりの年配になったが、日本の記者席ではまだ元気な先輩たちが何人も活躍しておられるので敬語を使って、うろうろしている。しかし、地球の反対側までは、長老たちは来られないだろうと思ったのである。
ところがだ。空港の入国手続きの窓口に並んだら、前で管理官の質問に答えているのがロクさんだった。
「職業は?」
「ジャーナリスト」と、澄ましたものである。
最長老の夢ははかなく消えた。
東京五輪前の不運
高橋さんは、もとより本来のジャーナリストではない。早稲田大学を出て日立製作所に勤め、日立のサッカー部(いまの柏レイソル)を率い、日本代表チームの監督も務めた。
しかし文章を書くのが好きで、新聞などにもよく寄稿したし、著書もある。それで、時としてジャーナリストに変身したわけである。
高橋さんが「書き魔」になったことに、ぼくも、いささか貢献している。1960年代に、当時の日本サッカー協会の機関誌「サッカー」の編集を手伝っていたころに、よく原稿を依頼したからである。
高橋さんは、ローマ・オリンピック予選で敗退したあとの立て直しを託されて1960年に日本代表の監督になった。次の1964年が東京オリンピックだったので、その強化のために長期のヨーロッパ遠征をした。そういう機会に学んだサッカーの技術指導の方法などを、高橋さんに書いてもらったのである。
高橋監督の率いたヨーロッパ遠征の時にドイツのデトマール・クラマーさんを日本に招くことが決まった。これが高橋さんにとっては、不運にもなった。
東京オリンピックのときの監督は、筋からいえば高橋さんのはずだったが、高橋さんは2年間で身をひいて監督は長沼健さんになった。これはクラマーさんの意見に当時の日本サッカー協会の首脳部が従ったのだろうと、ぼくは推測している。
そのために陰に隠れたロクさんの功績は、掘り起こして歴史に残しておかなければならないと思う。
職人肌のテルキ
ロクさんの悲報の3日前に宮本輝紀氏の訃報が新聞に載った。2月2日に北九州市で死去。59歳だった。
1968年のメキシコ・オリンピックで銅メダルをとった栄光の戦士たちの中で、非常に重要な役割を演じたプレーヤーだったのに、いまの若いサッカーファンには、あまり知られていなかったように思う。監督コーチだった長沼健、岡野俊一郎の両氏は、日本サッカー協会の最高首脳になり、得点王の釜本邦茂氏は参議院議員である。杉山隆一氏も、その後、ヤマハ、ジュビロ磐田の役員として活躍している。
しかし、宮本輝紀氏の名前は、その後、あまりジャーナリズムに取り上げられることはなかったのではないか。あるいは、九州では活躍していたのかもしれないが、九州共立大のサッカー部の監督をしていたことを、ぼくは初めて知った。
「テルキ」と名前で呼び捨てにして親しまれていた職人肌の名選手だった。攻撃の第2線でボールをあやつり、チャンスを作るクロート受けするタイプだった。
こういう人たちの功績を記念するために「サッカー博物館」を作りたいと考えたことがある。そのときに入り口の舗道に、銅メダリストの足形を残したらどうかと考えた。ハリウッドの劇場の前にある映画スターの手形と同じアイディアである。
ところが、そのアイディアを取り上げてくれる人がないうちに、さきにワッタンこと渡辺正氏が亡くなり、いままたテルキを失った。老少不定とはいえ、実に残念である。
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