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サッカーマガジン 1999年6月30日号
ビバ!サッカー

キリンカップ第3戦
トルシエを支持する

 キリンカップ99で、日本代表は、ベルギーにも、ペルーにも0対0の引き分け、順位としては3チーム中の最下位に終わった。「得点力がない」「監督がおかしい」と批判が出ているが、現時点の現段階では、試合に関するかぎり、トルシエ監督の方針は間違っていないと思う。

ベルギーとの引き分け
 キリンカップの第2戦、日本対ベルギーの試合は、見ることができなかった。6月3日の木曜日、場所は東京の国立競技場である。木曜日は勤め先の大学で2コマの講義を担当している。それに、木曜日の午後は学内の会議日になっている。試合はナイターだったが、兵庫県の加古川市から新幹線で駆け付けても間に合わない。
 こういう状況になったのを、ぼくは内心、喜んでいる。
 ぼくが若いころだったら、ヨーロッパのナショナルチームが来日したら、講義や会議は放り出して、見にいっただろう。日本でA代表の国際試合を見る機会は、滅多なことではなかったからである。
 しかし、現在では国際試合を見る機会は1年間に何度もある。そのたびに勤め先を休み、資質十分な兵庫大学の学生たちの教育を放り出すわけにはいかない。つまり、それほど日本でサッカーを見る機会が増えたのを喜んだわけである。
 0対0の引き分けという結果も、内心では喜んだ。いまどきの人たちは「地元で勝てないとは情けない」と思うだろうが、ぼくが若いころは来日したヨーロッパのセミプロ・チームに、日本代表は9対0くらいで負けていたものである。それを思い出して「ベルギーに引き分けるなんて、たいしたものだ」と感慨にふけってしまう。
 しかし、それを口に出して言うと
 「日本代表が勝つのが当たり前」と思っている若い人たちに怒られるので、心のなかだけで喜んでいる。

ペルーとの引き分け
 最終戦の日本代表対ペルー代表の試合は、日曜日だったので横浜国際競技場まで見に行った。お天気に恵まれ、日本新記録の6万人を超す大観衆で、スタンドのムードはすばらしかった。「2002年のワールドカップも、こういうお天気、こういうムードだといいな」と思った。しかし6月は雨のシーズンである。お天気のほうは、3年後がちょっと心配である。
 結果は、これも0対0の引き分けだった。前半は日本がよく、フリーキックがポストをたたく惜しい場面があった。後半は日本に疲れが出てペルーに押しまくられ、ペルーのシュートをポストや、バーが防いでくれた場面がめった。
 実は、京都で第1戦のベルギー対ペルーの試合を見たとき、内心でこう考えていた。
 「ベルギーには1対0で勝つ可能性があるんじゃないか、いまの日本の選手は、ヨーロッパの大柄な選手たちに競り負けずに攻める技術をもっている。守りでも、ベルギーの逆襲速攻を食い止めるくらいのチームとしての組織力をもっている」
 結果は1点をとることができなくて引き分けだったが、相手を0に抑えたのは「よし」としなくてはならない。
 ぺルーについては、こう考えた。
 「ペルーには、0対1で負けるかもしれない。ペルーの選手のすばやくて巧みなテクニックは、日本選手より上だ。守りもベルギーより厳しく巧妙だ。日本が勝つのは、なかなか難しいだろう」

森岡が台頭した大会
 ペルーには苦戦を予想していたので、これも引き分けなら「よし」としなければならない。
 日本は地元とはいえ、中2日の連戦で疲れがあった。ストライカーの中山と城を欠いていた。相手も遠征の不利があり、必ずしもベストメンバーではないにしても、ともかく欧州や南米のレベルと互角に戦えるようになったのはすばらしい。
 日本の攻めのタレント不足は明らかだったが、これは今後、対策を考えていくだろう。今回は柳沢に経験を積ませることができたのがよかったと思う。
 守りは、ずっと守備ラインの要だった井原をはずして、若い森岡を使った。森岡は判断も、思い切りもよく大活躍だった。今回のキリンカップは、森岡隆三が台頭した大会として、記憶されることになるかもしれない。
 若い選手を試し、経験を積ませることが、今回のキリンカップに関しては、トルシエ監督のねらいだったと思う。
 コパ・アメリカに行く日本代表と、シドニーへのアジア予選を争う若手のオリンピック代表の2チームをかかえ、2002年へ向けて、その統合の道筋をイメージしながらチーム作りをする。その過程に今回のキリンカップがあった。
 そういう視点で見れば、トルシエ監督の選手起用も作戦指導も正しいと思う。グラウンド上の問題に関しては、ぼくはトルシエを支持する。
 最下位だったという結果は、この大会では問題ではない。


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