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サッカーマガジン 1999年6月16日号
ビバ!サッカー

Wカップのメディア論(11)
日韓共催の成功のために

 2002年のワールドカップでは、日本と韓国の両方のメディアに満足してもらわなくてはならない。これは、なかなかむずかしい仕事だろう。ともにジャーナリズムが十分に発達している。しかし、言葉も文字も違う。欧米のメディアのほうだけを向いた対策では失敗する。

横文字と縦文字
 ワールドカップが成功したかどうかを、最終的に歴史に残すのはメディアである。後世の人は、新聞や雑誌に印刷された記事や評論をみて、歴史を語るだろう。2002年ワールドカップの成否のカギはメディア対策が握っているといってもいい。
 いいことも、悪いことも、あらいざらい書いてもらっていい。へたに情報を隠すと、かえって間違ったことを書かれる。公正な記事を書いてもらうために、正しく、十分な情報を提供しなくてはならない。
 問題はそれを何語で、どういうように提供するかである。
 フランス語、英語、スペイン語の3カ国語で提供するのが、これまでの例だった。日本や韓国や中国の縦文字の国の記者は、必ずしも横文字が得意とはいえないが、しかし、まったく英語のできない人は少ない。だから英語で、がまんしたわけである。
 ぼくの経験では、現地の新聞やラジオを十分に利用できないのは、はなはだ不便である。1970年のメキシコ大会のときは、プレスセンターに英語のできる女性が、おおぜいいたので、わずかなスペイン語力でめぼしいと思う新聞記事を拾いだして、彼女たちに英語に訳してもらったりした。これは便利だった。
 最近のワールドカップでは、プレスセンターのコンピューターの情報サービスのなかで、その国だけでなく、他の国の新聞記事まで紹介している。これも助かるけれど、必ずしも、こちらが探している情報ではないのが残念である。

両国語でのサービスを
 3月に前橋市で開かれた陸上競技の世界室内選手権のときに、メディアサービスのお手つだいをした。おおむね、うまくやったのだが、一つだけ残念だったことがある。それは開催地元の言語、つまり日本語でのサービスをしなかったことである。
 金、銀、銅のメダルをとった選手の談話を、競技終了直後に、すぐ集めて、英語にして報道陣に提供したのだが、これが日本の新聞や雑誌の記者たちに、あまり評価してもらえなかった。理由は英語だけだったからである。
 外国で開かれる大会のときには、日本から取材に行った記者たちはみな、英語によるサービスを利用している。前橋の場合は、開催地は日本だが、大会は国際的なものである。だから、英語だけでいいと思ったのだが、これが間違いだった。外国にいけば英語を利用する記者たちも、日本では日本語のサービスがあるのが当然だと考えて、英語によるサービスの利用率は低かった。
 入賞者はいろいろな国の言葉を話すのでそれを全部、英語に直して提供するだけでも、なかなかたいへんである。日本人の記者たちも英語は読めるんだから、英語だけでいいと思ったのが間違いだった。もう、ひと手間かけて日本語の情報サービスをするべきだった。
 2002年のワールドカップのとき、日本の会場でも、韓国の会場でも、日本語と韓国語の情報提供サービスを、やらなければならない。英語、フランス語、スペイン語だけでは不十分である。

サッカー記者の交流も 
 ワールドカップは、世界の大会だから、会場がどこの国であっても、やることは同じである。競技場内でのサッカーは、世界共通のルールで行なわれ、審判は国際的に統一された基準で笛を吹くはずである。そこでは、横文字だけで支障はない。 
 メディアのほうは、そうはいかない。とくに2002年は日韓共催だから、2種類の縦文字が飛びかい、そこに横文字が入りこんできて、世界へ横文字で発信する。縦文字も横文字も満足させるように考えなければならない。
 日韓共催にからんでは、もう一つ別のことも考えている。
 ぼくの頭のなかにあるのは、日韓両国のサッカージャーナリストの交流である。
 1969年の秋だったと思うが、70年メキシコ・ワールドカップ予選の試合がソウルで行なわれたとき、日本のサッカー記者が、はじめて韓国を取材に訪れた。
 そのとき、韓国のサッカー担当記者たちが、ぼくたち日本人記者を招いて夕食会を開いてくれた。韓国のサッカー記者のなかに日本語の上手な人がいたので実現した会だった。取材の面でも、いろいろ面倒を見てくれた。日韓の国民感情の食い違いは、現在よりずっと大きかった時代である。
 あれから30年。ワールドカップの共催を機会に、30年前の韓国のサッカー記者たちの度量の広い友情に恩返しをしたい。日韓のサッカー記者交流を発展させることが、できないものかと考えている。


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