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サッカーマガジン 1999年5月26日号
ビバ!サッカー

フェアプレー賞に思う
応援の異文化理解を!

 2002年のために連載中の「ワールドカップのメディア論」を、前回は日本ユース代表を讃えるために中断したが、ついでに今週もメディア論は休講して、フェアプレー賞を取り上げたい。フランス大会へ応援に出掛けた日本のサポーターが表彰されたのだが……。

紙吹雪はいいことか?
 4月の下旬に東京でメディアについてのシンポジウムがあって、わざわざ兵庫県の加古川から聞きに行った。友人がパネリストとして出ることになっていたからである。テーマは例のIOC(国際オリンピック委員会)スキャンダルの報道についてだった。
 そのなかで、壇上の友人が思いがけない発言をした。
 「マスコミは、スポーツについてはなんでも美談に仕立てたがる傾向がある」
 というのが発言の趣旨である。
 たしかに甲子園で活躍すると、たちまち文武両道の達人に仕立てあげたり、大相撲でスピード出世すると中学生のときの悪ガキがスポーツで立ち直った物語になったりする。安手のマスコミの悪い例は多い。
 その話がワールドカップに飛び火した。
 「フランス大会のときの日本のサポーターがフェアプレー賞をもらったのも、これに類している。聞いたところによると、スタンドで紙吹雪を撤くようなことは、ヨーロッパではやらないそうだ。ちらかった紙を掃除するのがたいへんで地元の競技場の人たちは迷惑する。フランスで日本のサポーターが紙吹雪を撤いたら、地元の観衆が非難のブーイングをした。それで、やむなくスタンドの紙くず回収をしたという話だ。それを美談にして報道して、フェアプレー賞を与えるのはどうかしている」
 ふーむ。
 これは、事実関係の理解が、ぼくとはだいぶ違う。

起源はアルゼンチン?
 たしかに、紙を撤いたのも日本人のサポーターであり、スタンドに散らかった紙くずを回収したのも日本人のサポーターである。撤いた人と掃除した人は、あるいは別人かもしれないが、外国人からは「マッチポンプ」に見えるかもしれない。つまり自分で火をつけておいて、消防ポンプを持ってきて消すようなものである。
 ぼくの知るかぎりでは、サッカーの試合で紙吹雪を撤くのは、もともとアルゼンチンのサポーターの習慣である。1978年のワールドカップのとき、リバープレート競技場の巨大なスタンドを、まっ白なカーテンで覆ったような紙吹雪の美しさに驚嘆して、記者席から夢中でシャッターを切った覚えがある。
 紙吹雪の正体は、新聞紙を切ったもので散らかったあとは汚らしい。掃除がたいへんだし、試合の邪魔にもなる。これも確かである。
 日本のサポーターが紙吹雪を撤くのは、そのサルまねが起源じゃないかと思う。日本のJリーグの試合でもやっていて、主催者側が、やめるようこ呼びかけている、という話も聞いた。
 それで、心あるサポーターが大きなビニール袋を持ってきて、スタンドに散ったものは回収するようになったのだと思う。たぶん、自分が撤いたタネを刈っているのではなく、心ない仲間の尻拭いをしているのだろう。 
 それをフランスに持ち込んだら、誉めた人もいる一方、けなす人も出てきた、というわけである。

応援文化の違い 
 「ものを散らかすのはよくない」というのは日本の文化である。ぼくも、そういう文化のなかで、しつけられて育ったから、紙吹雪を散らかして他の人びとに迷惑をかけることには反対する。アルゼンチンの文化のサルまねをすることはない。 
 とはいえ「散らかすのは悪い」というのが、世界共通の考え方かどうかには疑問がある。  
 30年以上前の話だが、中国の南のほうに旅行したとき、カボチャのタネを噛む食習慣に、びっくりしたことがある。中身を食べたあとのカラを、ぺっと吐いて、平気で床に散らかしている。「汚い」と思ったが、これが、その地域での習慣であり、食文化である。アルゼンチンのサポーターの紙吹雪も、この国の一つのサッカー文化だと思う。いろいろな文化があることは、理解しなければならない。
 とはいえ、その国の習慣であり、文化であっても、すべてが尊重に値するとは限らない。時代とともに社会に受け入れられなくなるものも出てくる。カボチャのタネを吐き捨てる習慣も、現在では、あまり見かけなくなっているだろうと思う。異文化の習慣をマネして、それが他の人びとの迷惑になるようでは困る。
 サッカーの応援は、いろいろな国に、いろいろなやり方がある。それを見るのは楽しい。でも無批判なサルまねには賛成できない。
 フェアプレー賞についていえば、散らかした人に与えるのではなく、片付けた人に与えたんだから、いいんじゃないか、と思っている。


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