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サッカーマガジン 1999年5月12日号
ビバ!サッカー

Wカップのメディア論(8)
取材登録の割り当て

 ワールドカップをジャーナリストとして取材できるのは、一つの特権である。ファンは高価な入場券を買わなければならないのに、取材登録を認められれば無料で入場できるからである。でも世界各国の多数のジャーナリスト、カメラマンから、どうやって取材者を選ぶのか?

優雅だったメキシコ70
 はじめてワールドカップの取材に行ったのは、1970年のメキシコ大会だった。このときに取材のための証明書をもらうのは簡単だった。理由は二つある。
 一つは、ぼくが大きな新聞社に勤めていたことである。すでに10年以上、スポーツ記者として働いていてとくにサッカーは熱心に取材していた。FIFA(国際サッカー連盟)の機関誌にも寄稿していた。国内でも、国際的にも、サッカーを取材しているプロフェッショナルであることは、明らかだった。
 取材登録が簡単に認められたもう一つの理由は、そのころ、日本からワールドカップを取材に行きたいという人間が少なかったことである。
 これにも二つの理由がある。
 第一は、日本でサッカーが、それほど盛んでなくて、新聞社や雑誌社が特派員を出す必要を認めなかったことである。
 第二は、日本の経済が、まだ発展途上で海外に行くための経費や外貨に制約があったことである。航空運賃もかなりの負担だった。
 とはいえ、日本でも少年たちの間では、サッカーが急速に普及しはじめていた。経済事情も急上昇の気配で海外ツアーも盛んになりはじめていた。そこで、競争相手のはずの他の新聞・通信社の仲間にも「メキシコに行こうよ」と呼び掛けた。優稚なものである。
 読売、朝日、日刊スポーツ、共同通信社、サッカー・マガジンの5人の記者が出掛けたと記憶している。

特派員は出さない!
 メキシコ大会のとき、ぼくの勤めていた新聞社は、ワールドカップへの出張を許してくれなかった。「日本も出てない大会に特派員を出す余裕はない」というわけである。
 そこで「休暇をとって見に行くから記者登録だけでもさせてくれ」とがんばった。その当時は、新聞記者が1カ月もの長期の休暇を取るなんて「とんでもない」という時代だった。しかし、規則上は休暇の権利がある。止むを得ず、という感じで、しぶしぶ認めてくれた。
 ところが、ぼくの呼び掛けに応じてメキシコに行くことになったほかの社の記者が、ちゃんと勤め先から特派員として派遣されることが分かった。
 ライバルの新聞社は現地から特派員の名前で記事を送ってくる。わが社の記者は休暇で出掛けて現地で楽しんでいる。これでは上役の面目が立たない。というわけで、ぼくの所属していた運動部(スポーツ部)の部長が妥協案を考えた。
 「特派員としての経費は出せないが原稿は送ってくれ。それに対して原稿料を払おう」 
 社員でありながら、社から原稿料をもらう立場になったわけである。もっとも、原稿料の総額は飛行機賃にも足りなかった。
 現地へ行ってみると、ほかの国からも、ブラジル以外は、それほど多くの記者は来ていなかった。いまとくらべれば、世界全体の経済に、それほど余裕がなかったのだろう。またマスコミの競争も、いまほど激烈ではなかったように思う。

フランス大会の場合
 それから、ほぼ30年。世の中は内外ともに、がらりと変わった。
 フランス98では、ワールドカップの記者登録の枠の取り合いは激烈だった。メキシコには特派員派遣をしぶった新聞社も「1社に記者2人では足りない。4人は出したい」とがんばる状況だった。
 一つには、日本でもサッカーが人気スポーツになったためである。また、日本がはじめて出場権を得たためでもある。
 現在は、FIFAが各国別に取材者登録数の割り当てを決め、その国のサッカー協会が人選することになっている。そこで、日本では、日本サッカー協会が人選をした。さしあたって、サッカー協会以外に、人選を担当する適当な組織はない。
 止むを得ない方法ではあるが、スポーツ団体が言論統制の武器を握るという問題も生まれている。長野の冬季オリンピックのときに、大会当局にとっては、けしからぬ取材をした新聞社から、組織委員会が記者証を取り上げるという事件があった。賛否両論はあったが、メディア論としては重要な問題になった。これと同じようなことが起き得る可能性はある。
 また、日本で認められなかった記者が、枠に余裕のある他の国のサッカー協会に食い込んで登録するような弊害もある。
 フランス大会でも、開催国として割り当ての多いフランスから登録したり、特派員を出す余裕のないアフリカの国から登録している例があった。これも検討すべき課題だろう。


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