IOC(国際オリンピック委員会)の不明朗な事件が、どんどん大きくなっている。開催地決定の投票権を持つ委員の買収が大がかりに行なわれていたという話である、2002年のワールドカップ開催地決定のときは、どうだったのか? サッカーの場合とくらべてみよう。
IOC委員の汚職
オリンピックは、夏の大会と冬の大会を合わせて考えると、2年に1度開かれる。最近は開催したいと希望する都市が多くて、誘致合戦がなかなか激しい。そこで、開催地決定の投票権を持つIOC(国際オリンピック委員会)の委員を現金や利権で動かそうとする連中が出てくる。
委員のなかに買収された者がおり、また立候補都市に頼まれて、買収を請け負うエージェントもいる。前から噂されていたことではあるが、昨年の12月に、それが明るみに出て、噂の委員の辞任、追放騒ぎが拡大している。冬のオリンピックの次の開催地のソルトレークシテイーが、焦点になっているが、昨年の長野冬季オリンピックの開催地決定でも同じようなことがあったという話である。
大きな現金や利権でなくても、委員が視察にきたときに、必要以上にぜいたくな接待をしたり、豪華な、あるいは貴重なお土産を持たせたりするのは、当たり前になっている。
2002年のワールドカップをめぐって、日本と韓国が誘致合戦を展開したときに、同じような噂はなかっただろうか。
IOC委員は90人以上いて、その全員が投票権を持っている。人数が多いと、なかには不心得者も出るから少数の理事だけで役票しようという意見が出ていた。
ワールドカップは、FIFA(国際サッカー連盟)の約20人の理事だけで投票する。少人数だと、数人買収しただけで大勢を動かすことができるから、こっちのほうは大丈夫だとはいえない。
五輪の「米騒動」
オリンピックでこういうことが起きるのは「商業主義のためだ」という意見が出る。
そうだろうか?
ぼくは京都の龍谷大学で「スポーツ・メディア論」という講義を持っているが、学生たちのなかにも「スポーツに商業主義が入りこんだのが諸悪の根源」という考えに取りつかれている者がいて、レポートにそういう意見を書いてくる。
「スポーツをビジネスに利用しない」というアマチュアリズムは、一つの信念であって、個人がそう信ずることに、ぼくは反対しない。仏教を信じてもキリスト教を信じても、それは信仰の自由である。
しかし、スポーツがビジネスになっているのは現実である。また商業主義が「悪」だと考えるのは現実離れした偏見である。
お米に値段を付けて売るのはビジネスであり、商業主義の一つの形熊である。お米を買わないで、お腹をすかせるのは個人の勝手だが、お米を買うのは「悪事」だ、といわれてはかなわない。お米の売買は商業主義ではあるが「弊害」ではない。
しかし、飢饉のときに米屋さんが在庫を隠し、金持ちだけに高く売り付けると「米騒動」が起きる。これは歴史の教科書にも書いてある。
オリンピック開催地をめぐる贈収賄スキャンダルが糾弾されているのは「米騒動」に似ている。
商業主義が悪いのではなく、商業のルールを守らないのが悪いのである。商業のルールは「公正な取り引き」である。
偽の商業主義
オリンピックの場合は、さらに別の問題がある。それはオリンピックの商業主義は、偽の商業主義だということである。
現在のオリンピックの最大の収入源はテレビの放映権抖である。それはいい。オリンピックは大きなソフト(番組)であり、番組を制作して対価をもらうのは商業主義だけれども公正な取り引きである。
ところが、番組に出演している選手たちには、対価は支払われていない。出演料はタダである。なかには別のところから、かげでお金をもらっている選手もいるかもしれないが、大半の選手は無料で参加している。
これは公正な取り引きだろうか。IOCはイベントを制作して放映権料を稼いでいるのに、主役にはギャラを支払わないのである。それでいて、IOC委員はファーストクラスの飛行機で世界中を大名旅行し、高価なお土産をもらい、なかには賄賂までもらっているというのである。
これは「商業主義の弊害」ではなく「偽商業主義の偽善」である。
サッカーのワールドカップのほうが公正だと、ぼくは思う。
1998年フランス・ワールドカップの組織委員会は1月12日に、約5億500万フラン(約98億円)の収益を残して解散した。参加チームに試合数等に応じて、ちゃんと出場抖を払ったうえである。これは「本物の商業主義」である。
とはいえ、だからといって、開催地を選ぶときに不公正な競争があっていいというわけではない。
それは別の話である。
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