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サッカーマガジン 1998年10月21日号
ビバ!サッカー

ヒデ中田の活躍を喜ぶ

 この「ビバ!サッカー」でも、フランス・ワールドカップの経験から2002年を考えてきているが、そのシリーズを月に1度くらいは中断して、最近の話題も取り上げたい。過去や未来ばかりを語って現在を忘れたくないからである。2度目の中断の今回は中田英寿の活躍を!

☆「ご内聞に」?
 中田英寿選手がイタリア・セリエAのペルージャで活躍している。シーズン開幕のデビュー戦でいきなり2得点、その後もレギュラーで出場し評価は高いようだ。「よかった、よかった」と人並みに喜んでいるだけでなく、内心ひそかに溜飲を下げた。
 何に対して溜飲を下げたかというと、だいぶ前に朝日新聞に掲載されたコラムの文章についてである。
 ワールドカップの期間中に、放送作家の永六輔さんが『週刊朝日』にこう書いていたのだそうだ。
 「日本が勝てないのは頭の差だそうです。誰にも言えないし書けないので、ご内聞に」
 これを引用して朝日新聞夕刊1面コラムの『窓』に(児)という署名でこう書いてあった。ぼくの家に配達された新聞では7月18日付けである。
 「心やさしい永さんは、他人をばか呼ばわりするのにしのびなく、『ご内聞に』と言い添えたのだろうが、指摘の通りらしい」
 「これはひどい」と、ぼくは思った 永六輔さんが「ご内聞に」と書き添えたのは一種のジョークである。週刊朝日のような有力な出版物で活字にして「ご内聞に」なんてことは冗談でなければ言うはずがない。永六輔さんは、誰かから聞いた話を、事実だと思って公表したに違いない。
 しかし、これは事実ではない。それを「指摘の通りらしい」という表現で無責任に孫引きして論じたジャーナリストは、もっとひどい。

☆インテリジェンス
 サッカー・マガジンの読者には説明を要しないところだろうが、永さんが「頭の差」と書いたことは、サッカーの世界では「インテリジェンス」ということばで表現されている。サッカーにとって重要な要素に「テクニック」と「体力」と「インテリジェンス」がある。インテリジェンスは試合中に一瞬にひらめく判断力である。この判断力で日本のサッカー選手が劣っているかどうかがポイントである。
 実は、日本のサッカー選手のインテリジェンスが問題になったのは、20年くらい前の話である。
 そのころまでは、日本のサッカー選手で劣っているのは「個人のテクニックだ」というのが一般的な見方だった。
 ところが、20年ほど前に、日本のサッカーを見たヨーロッパの専門家は「テクニックは巧いよ。問題はインテリジェンスだよ」と口ぐちに指摘した。
 ぼくが、このことばを最初に直接きいたのは、ヨハン・クライフからだったと記憶している。
 「テクニックは巧い」と言われるようになったのは、1964年の東京オリンピックをきっかけに、日本のサッカーが変わった成果だった。ドイツから招いたコーチのデットマール・クラーマーさんの指導があり、少年サッカーを普及させる努力があった。
 「インテリジェンスが問題」だという指摘については、日本の学校教育との関連が議論になった。これは、1970年代の後半から80年代の前半にかけての話である。

☆個性を育てた努力
 日本の学校教育では「個性を伸ばすより、みんなを平等に向上させよう」としがちである。また「自分で考えさせるより決まったことを教え込むのが教育」という考え方がしみついている。
 それがスポーツにも影響して、一人一人で考える能力が育たないうえ、すぐれた才能をもつ個人が突出するのを妨げている。だから型にはまった組織プレーが重視されて、個人の「インテリジェンス」が生かされない。
 というのが、そのころの議論のポイントだった。
 Jリーグができる前の日本のサッカーは、学校スポーツが主流だったから、サッカーのインテリジェンスを伸ばすにも、学校スポーツの枠内での努力が必要だった。少年サッカーや学校の指導者の意識改革をするためのキャンペーンやサッカー協会の組織的な努力が、それ以来、根気よく続けられてきたことを無視することはできない。
 ペルージャの中田英寿が評価されているのは、開幕試合で2点をあげたシュート力のためではない。買われているのは、中盤でパスを出す判断力である。自分でゴールする場合でも、シュートができる場所をすばやく読み取る能力である。つまりインテリジェンスである。
 高校サッカーの名門、韮崎高校からヨーロッパで通用するインテリジェンスの持ち主が出たのは、20年来の関係者の努力の成果である。
 ヒデ中田の活躍が、大新聞の論説委員の論評の誤りを証明してくれたのを喜んでいる。


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