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サッカーマガジン 1998年5月6日号
ビバ!サッカー

スタープレーヤーとマスコミ

 スターの座に駈けのぼった中田英寿選手とマスコミとの折り合いが悪いんだそうだ。スターとマスコミは、持ちつ持たれつではあるが、同時に仇(かたき)同士でもある。一流のプレーヤーはマスコミとうまく折り合っているが、例外もあって、この関係は一筋縄ではいかない。

☆わが大学の新学期
 ぼくが働いている兵庫県加古川市のキャンパスにも、新学期が始まって、多数の新入学生が入ってきた。
 わがキャンパスには、発足4年目に入った経済情報学部と、日本でもっとも古い伝統を持つ短期大学がある。
 短大の方は、新年度から「兵庫女子短期大学」が「兵庫大学短期大学部」と名称変更になった。「女子」がなくなったので男子も入ることができる。というわけで美術デザイン学科と保育科に、男子学生が相当数、入学してきた。わがキャンパスは、個性豊かに、変化にあふれ、非常に楽しい。
 とはいえ、これは、わが大学の教職員全員の感想ではない。
 5年前に、身のほど知らずに教育の仕事に転身する前は、ぼくは30数年にわたって新聞社で働いていた。マスコミの仕事は、ご存じのように変化に富みすぎている。
 そういう世界になじんできたから、キャンパスがバラエティーに富んできたのを歓迎しているのだが、まじめな学問の探求者である本来の大学の先生方は、必ずしもそうではないようだ。
 髪の毛を茶色に染めている学生が何人かいる。高校のときに禁止されていた反動で、大学生になったから自由だと得意になっているのだが、別に他人に迷惑をかけているわけではない。
 ぼくは、頭を茶髪に染めてその中身もアインシュタインのようになるなら大歓迎である。そうはならないに決まっているが、外見を規制して中身の個性をつぶしたくはない。

☆中田英寿くんの場合は?
 中田英寿くんの場合も、同じように扱えるだろうか。
 茶髪にしようが短髪にしようが、彼の頭の中身は、少なくとも日本のサッカーの世界のなかでは、間違いなく一流である。外側を型にはめようとして、内側の個性まで殺してしまっては元も子もない。
 最近の新聞紙上で中田くんの言動が話題になったのは、ぼくの知るかぎり二つある。
 まず、マスコミは信用できないから話をしない、という態度が問題になった。
 これは、よくあることで、マスコミは、本人がしゃべったことを全部伝えるわけではない。一部を短く報道するのだから、本人の意に反した要約をされることも起きがちである。しかし、有名人になれば、マスコミを通じてPRをするのは社会的に必要な仕事であり、できるだけ自分の思いが世間に正しく伝わるように努力する必要があり、正しく伝えるための技術が必要である。
 つまり、グラウンドの外でも、マスコミへの応対術を身につけておく必要がある。
 第二の問題は、グラウンドのなかでの話である。
 中田が「ここがポイントだ」と思って狙ったスペースにパスを出すのに、受ける方の側が、中田の意図に応じてくれない。それで中田が不満を持っている、という話が伝えられた。
 パスは送り手と受け手の両方があって成り立つのだから、これは一方の側だけの話では判断できない。

☆呂比須との関係は?
 呂比須が足元へのパスを欲しがっているのに、中田はスペースへのパスを出したがる。だから二人のコンビはうまくいかない。スポーツ新聞で目にした記事は、こんな内容だった。
 ぼくは、この手の記事はまるごとは信用しない。火のないところに煙は立たぬというから、まったく、なかった話ではないだろうが、このような対立は、よくあることで、いいチームを作るための過程である。
 足元か、スペースかは、どちらか一つというものではなくて、場合によって「どちらもあり」である。中田が「スペースを生かそう」と判断したときに、呂比須がそれに応じて動き、呂比須が「足元にもらって突破したい」と思ったときに、中田が、それを感じ取って足元にパスを出す。そういうようになったときに「チームワークができた」というわけである。
 その過程での討論をチームの内紛のように取り上げては、小さな火種が燃え上がって大火になる。そういう誇大な扱いをしないのが、マスコミの方の倫理だと思う。
 ときには、どうしても、うまくいかないコンビもある。そのとき、誰を切り、誰を生かすかを決めるのは監督である。一人のスターが「あれがいい、これがいい」という問題ではない。
 ワールドカップをめざす日本代表についていえば、中田も、カズも、呂比須も必要である。岡田監督は、みなを生かしたチーム作りをめざしているに違いないと思う。


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