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サッカーマガジン 1998年1月7日&14日号
ビバ!サッカー

天皇杯での地方勢

 岡田全日本の人気が実力以上に沸騰して、ファンの目はフランス・ワールドカップに向いている。一方でJリーグは財政的に先行き不安だという話だ。だが将来を本当に支えるのは全国各地の底辺である。天皇杯の1回戦で、日本のサッカーの足腰を確かめてみた。

☆神戸中央の思い出
 兵庫県の大学に勤めていて、ちゃんと県民税、市民税も納めている。というわけで天皇杯の1回戦は地元の兵庫県で見ることにした。11月30日、神戸中央球技場である。
 神戸での試合は、近ごろは、たいてい神戸市北方の山のなかを切り開いたニュータウンの神戸ユニバーシアード競技場で行なわれる。だから、市内にある中央球技場に行くのは久しぶりだった。
 JRの神戸駅からタクシーで行ったら、球技場の周辺は地下鉄工事でごった返していた。この付近は三菱重工の造船所などがある和田岬から入ったところで、市街地のなかではあるのだが、地元の地理に詳しくない人が行くには、ちょっと分かりにくい。しかし地下鉄ができたら非常に便利になるに違いない。
 ここは40年くらい前までは競輪場だった。その跡地に目を付けてサッカー場建設を推進したのは神戸FCの創設者である加藤正信さんである。将来、ここに地下鉄が通る計画があることを察知し、政治力を駆使して市営のサッカー場建設にこぎつけた。そして当時としては革新的な四隅照明のナイター設備を付けた。
 2002年のワールドカップのときは予定のユニバーシアード競技場ではなくて、この中央球技場を建て直して使うことが地元では決まっている。10年前にできたユニバーシアード競技場の設計が古くさくて使いものにならないからである。地下鉄工事が実際に行なわれているのを見て、いまは亡き加藤さんの先見の明に、いまさらながら敬意を表した。

☆「雪やこんこん」に感激
 さて、天皇杯の1回戦。神戸中央球技場で行なわれたのは、地元の関学大対アルビレックス新潟の試合である。
 新潟は、ぼくの故郷で、2002年ワールドカップの新潟開催やアルビレックスの創設には、ぼくも微力ながら一役買っている。
 というわけで、ぼくとしては地元の関学大よりも新潟のほうを応援に出掛けたのだった。 
 しかし、関学大のほうにも思い出は多い。半世紀近く前、関学は日本のサッカーのトップクラスだった。天皇杯でも全関学あるいは関学クラブの名前で5回優勝している。1958年と1959年に連続優勝したときのエース李昌碩選手は、ぼくが尊敬している友人の一人である。また当時の関学大の監督だった西邑昌一さんには、いまのヴェルディの前身である読売クラブの基礎を作るときに、ぼくが無理にお願いして監督になっていただいたことがある。
 試合前、神戸中央球技場の記者席は「いかに大学サッカーの地盤が低下しているとはいえ、まさか雪国の新潟には負けないだろう」というムードだった。しかし、ぼくは「関学がサッカーの名門だったのは半世紀近く前の話。ここは新潟が有利」と信じていた。
 なんとスタンドは、新潟から駆け付けた応援団が圧倒していた。その応援歌は「雪やこんこん、あられやこんこん。降っても降っても、まだ降り止まぬ」のメロディだった。 
 うれしいねえ、「雪に埋もれてこの半年」の新潟でも、サッカーが育っているのだ。

☆地方は育っている
 結果は6対2でアルビレックス新潟の完勝だった。
 事情を知っているものから見れば、これは当然のことで、雪国の新潟もかつてのような「サッカー後進県」ではない。
 記者席の隣の記録席の学生が「なんや、新潟に外国人選手がいるのか」と驚いていたが、アルビレックス新潟は、Jリーグ入りをめざすプロチームである。
 これまで4年間、監督を務めてきたファン・バルコムさんは、ヴェルディの前身の読売クラブの監督だった人物で、テレビの解説で活躍している松木安太郎さんを高校生のころに育てた指導者である。
 そういうわけで、新潟を「いなかチーム」と侮るわけにはいかないことを、ぼくは知っていた。
 試合内容を簡潔に解説しよう。
 @関学大の選手たちの個人テクニックは悪くない。テクニックの点では日本のサッカーの底辺が非常に向上していることを示していた。 
 Aアルビレックス新潟の戦術能力は予想以上によかった。相手が守備ラインをあげ、プレスをかけてくるのをかわす方法を、バルコム監督は、しっかり叩き込んでいた。
 B新潟の弱点が二つあった。一つは全日本レベルで戦うには、あと2〜3人のレベルの高いプレーヤーが必要なこと、もう一つは強い相手との試合経験が不足していることである。
 日本のサッカーの足腰である地方のサッカーは育っている。その芽を摘まないようにして欲しい。


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