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サッカーマガジン 1997年9月24日号

ビバ!サッカー

加茂周監督とマスメディア

 ワールドカップのアジア最終予選がスタートした。日本代表の監督にとって、これからが、いよいよ勝負である。ところが決戦の火ぶたが切られる直前になって、きびしい加茂監督批判が週刊誌の大見出しになった。スポーツ・ジャーナリズムの在り方は、これでいいのかと考えている。

☆監督を励まそう!
 代表チームの監督が批判にさらされるのは、サッカーの盛んな国なら、どこでも当たり前である。大衆は自分の国の代表チームの勝利を熱望している。マスコミも同じである。だから代表チームを良くしたいと思って手厳しい意見も書く。
 「選手起用が間違っている」「あんな戦法では勝てっこない」と試合ごとに論評する。ジャーナリストには、チームの内部事情のすべては分からないから見当違いも多いだろうが、岡目八目ということもある。外から見ている者が、案外、当事者の気が付かないことに気が付くかもしれないというわけである。
 「可愛さ余って憎さが百倍」で、不成績が続くと「監督やめろ」の大合唱が起きることもある。日本のサッカーでも、かつて「××やめろ」の合唱がスタジアムで起きたことがあった。このときは、非難の合唱も当然だという事情があり、ぼくも合唱のマナーには、まゆをひそめていたが、内心では「そのとおり」と思っていた。
 今回、ワールドカップ予選の決戦直前になって「加茂監督は交代せよ」という記事が、ある週刊誌に掲載されていた。「これはちょっと?」という感じである。
 加茂監督の業績は、これから試されるところではないか。しかも最終予選の開幕直前である。批判は結果を見てからでいい。
 ここは、これまでのやり方に批判はあっても「自分の方針を貫いて前へ進め!」と励ましてやるべきではないか。

☆言論のパパラッチ? 
  言論の自由、報道の自由は非常に重要だと、ぼくは信じている。ジャーナリストは、きびしい批判をためらうべきではない。とはいえ批判にもタイミングがある。
 決戦の直前に「監督やめろ」と叫んで、どういう意味があるのだろうか。
 第一に、敵前でウマを乗り換えるような監督交代が行なわれないことは明らかである。可能性がないことが分かっていて、センセーショナルな見出しのための批判ではないか。
 第二に、かりに監督交代のやむなきに至ったとしても、この期に及んで新監督に何ができるのだろうか。前監督によってチーム作りの90パーセントが終わっている段階である。監督交代によって、よりよい結果が生まれる可能性があるのだろうか。
 Jリーグ・ブームも下火になって一般の週刊誌がサッカーを取り上げることは少なくなったが、ワールドカップ最終予選が大衆の関心事になりそうになってきたので、無理をして、この問題に焦点を絞ってみたという記事の扱いだった。
 イギリスのダイアナ元皇太子妃の事故死で「パパラッチ」と呼ばれている追っ掛けカメラマンヘの批判が話題になっている。加茂監督へのタイミングのずれた批判が、言論のパパラッチであってはならない、と心配している。
 パパラッチはイタリア語で「やぶ蚊」という意味だそうだ。ちくっと刺されてかゆいくらいなら、がまんできるが、ぶんぶんとうるさくて、集中力の妨げになっては困る。

☆決戦前夜はそっと…
 日本代表チームの監督は、これまで概して、マスコミとの関係が非常に良かった。
 いまの日本サッカー協会会長の長沼健さん、副会長の岡野俊一郎さんは、1964年の東京オリンピックから1968年のメキシコ・オリンピックにかけて代表チームの監督、コーチだったころ、報道陣に対して親切すぎるくらい丁寧に応対した。自分が指揮した試合の内容を詳しく説明してくれたりした。
 これは必ずしも、いいこととはいえない。敗軍の将でなくても兵を語り過ぎてはいけない。
 しかし、いまから30年以上前の、その当時は、日本ではサッカーはあまり大衆的でないスポーツだったから、なんとか人気を盛り上げようとマスコミに懇切にサービスしたという事情がある。
 また取材記者にも、サッカーを知らない人が多かったから、監督、コーチが解説者も兼ねて啓蒙していたのが実情だった。
 いまでは、サッカー専門の記者や解説者が育ってきて、なかなか口うるさい。また国際的な情報戦も重要さが増してきたから、味方のはずの日本の記者にも、うっかり実情を洩らすわけにはいかない。敵に筒抜けになりかねないからである。
 そういうわけで、一部の報道陣と加茂監督の関係も緊張度が増しているのかもしれない。取材先とジャーナリズムとの張り詰めた対決も大切である。
 しかし、スポーツ記者の場合、決戦前夜には、そっと見守ってやるべきだと、ぼくは信じている。


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