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サッカーマガジン 1997年6月25日号

ビバ!サッカー

わが学園のサッカー部

 淡路島へ渡る明石海峡に5年前には東京タワーより高い橋脚がそびえ立っていただけだったが、いまや世界最大の明石大橋が開通直前である。光陰矢の如し。新聞記者稼業の足を洗って教育界に転身し、兵庫のサッカーに新風を吹き込もうと移り住んだのだが…。

☆わたしの履歴書
 気候温暖で環境うるわしい兵庫県加古川市の学園に来て5年目になった。その前は東京の新聞社で35年にわたってスポーツ記者だった。
 記者時代にやらされたのはオリンピックとプロ野球が大半である。これは日本のスポーツの構造に由来するところだから仕方がない。しかし本人は主たる仕事はサッカーで、スポーツ記者というより、サッカー記者だと称していた。
 サッカー協会の機関誌編集を手がけ、ヴェルディの母体になった読売サッカークラブの創設にかかわり、4年に1度のワールドカップに毎回出掛けた。新聞社に命ぜられてやったわけではない。自分勝手に公私混同して新聞社を利用したのだから、「いいスポーツ記者」ではなかったかもしれない。でも本人は「日本一のサッカー記者」を自任していた。 
 記者生活の最後のコーナーでは運動部から追い払われて、アメリカに飛ばされたりした。しかしニューヨークからアルゼンチンのコパ・アメリカ(南米選手権)に出かけたり、イタリアのワールドカップに自らを特派したりして、まだまだサッカー記者のつもりだった。 
 縁あって瀬戸内海を望む播磨の学園にきた。今度は大学を利用してサッカーに貢献するつもりだった。 
 しかし大学は新聞社ほどおおようではない。教育と研究は厳粛な仕事であって、取材費使って自分勝手に世界をとびまわるようなマネは許されない。そこでおおいに自戒して、大学の業務に没頭している――と本人は自任している。

☆サッカー部があるぞ!
 とはいえ本来の志を忘れたわけではない。わが大学にも、ちゃんとサッカー部があり、ぼくが顧問をしている。すきあらば教育と研究の本務を放り出して――ではない、きちんとやった上で、サッカー界に貢献する用意はできている。
 5年前には女子短期大学の教員として加古川に来た。サッカー部はなかった。しかしグラウンドとゴールがあったので無理に頼み込んで、半年だけサッカーの実技を体育の時間にやらせてもらった。ミニゲームばかりしたので、受講した女子学生はボールを扱う楽しさを満喫して受講登録者数より受講者数が多かったりする人気だった。
 でも学校当局は、ぼくの教育能力をそれほど評価はしなかったようである。教育とは厳しいものであって、学生がきゃあ、きゃあ騒いで楽しむだけではいけないのかもしれない。 
 2年後に4年制の兵庫大学ができて男子学生がどっと入学してきた。そして、たちまち、まったく自主的にサッカー部ができた。顧問に祭り上げられたぼくは、おおいに喜んでユニホーム一式を寄贈した。
 ただ、残念なことにグラウンドが使えなくなった。その年に阪神・淡路大震災が起きて同じ学園の高等学校の校舎が倒壊し、大学のグラウンドに仮設校舎を建てたからである。
 ことし高校の新校舎が落成し、グラウンドの仮設校舎は撤去された。
 サッカー部は、ようやく練習場を確保して、子犬のように喜んでグラウンドを走り回っている。これは大学らしい、ふんい気である。

☆自主性を育てたい
 サッカー部の運営や練習には、いっさい口を出さないことにしている。
 半世紀前の話ではあるが、ぼくが大学生だったときのサッカー部も学生の自主運営に任されていた。大学生は「おとな」として遇されていた。 
 とはいえ、心配してくれる人もいる。「サッカー部の学生は大丈夫ですか。卒業できるんですか」 
 さすがのぼくも心配になってキャプテンのS君に聞いてみた。
 「しっかりしたマネジャーでもいないのか」
 「類は友を呼ぶで、ぼくと同じようなヤツしかいないんですよ」
 「卒業単位は大丈夫だろうな」 
 「いや、必ず卒業します。これ以上は親に迷惑をかけられない」
 わがサッカー部員は、学業成績に問題なしとはしないが、意外に親孝行である。 
 ぼくとしては、半世紀前のわが身に、あまりにも似ているので強いことはいえない。 
 ぼくの出た大学は国立で、経費の大半は税金でまかなわれていたから「さっさと卒業してくれ」という方針だった。長いこと置いとくと税金のむだづかいになるからだろう。社会学科にいたので、卒論面接のとき、こういわれた。 
 「きみは社会学はあまり勉強しなかったが、卒業したら社会を勉強したまえ」 
 しゃだつな主任教授だった。 
 わが兵庫大学の先生方が、わがサッカー部員に、同じような温情あふるる方針をとってくださることを期待している。


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