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サッカーマガジン 1997年1月29日号

ビバ!サッカー

ジーコにサッカー大賞を

 ジャジャーン! 1996年度の輝く日本サッカー大賞は、鹿島アントラーズの功労者、ジーコと決定いたしましたーっ! Jリーグのスタートに貢献し、4年目のシーズンにアントラーズを優勝させた功績は、日本のサッカー全体に大きな影響を与えたと信ずるものでありまーす!

☆アントラーズでの功績!
 ビバ!サッカーが独断と偏見で選ぶ日本サッカー大賞は、賞金も賞状もなく、ただ、その功績を誌上に記録するだけではあるが、必ずや後世の人びとが「日本のサッカー史そのものだ」と驚嘆するに違いない権威あるものである。
 つまり、表には出なくても本当に価値のあった業績を掘り起こし、これを現代の人びとに紹介するだけでなく、歴史に正しく記録するという高い志をもって、ただひとりの見識ある委員によって選考されている。
 さて、ジーコは、いうまでもなくブラジルの生んだ1970年代から80年代へかけてのスーパースターである。
 そのジーコが、1990年代には日本でJリーグのスタートに加わりアントラーズのプレーヤーとして、また影の指導者として貢献した。その功績を記録に止めるために、ここに権威ある大賞を贈りたい。
 と、ここまで言うと口うるさい友人が異議を唱えた。 
 「それなら、アントラーズがJリーグ最初のタイトルをとった1993年度に表彰すべきだったじゃないか。たしか、あのときの大賞は、Jリーグそのもので、三賞の方にも、ジーコは入ってなかったぞ」
 ごもっとも。
 しかし、あの年のアントラーズは前期優勝でシーズン通してのタイトルではなかった。ジーコも貢献したが、プレーヤーとしては、ワールドカップやトヨタカップで活躍したころにくらべるから、権威ある大賞を贈るには物足りないものがあった。

☆精神面での功績!
 今回は――。
 アントラーズは1シーズン制の長丁場を制して堂々と優勝した。
 ジーコは、もうプレーヤーではなかった。監督でもなかった。テクニカル・ディレクターという名の影の指導者だった。
 しかし、アントラーズの優勝にジーコが、もっとも大きな貢献をしたことを多くの人が認めている。
 11月9日に優勝が決まったあと、スタジアムの片隅で記者たちに囲まれているところを、選手たちが引っ張り出して胴上げした。選手たちがジーコを高く評価している証拠である。
 ジーコの功績は技術、戦術面ではない。もちろん、アントラーズでプレーしていたときは、テクニックでも、判断力でも、いいお手本になって若いプレーヤーの才能を引き出していた。
 しかし、もっとも大きな貢献は、プロとしての、一つの生き方を実地に見せたことだと思う。
 ジーコは、リオデジャネイロにサッカースクールを開設する仕事もしていて、大忙しだった。その中で、アントラーズでも自分の役割は、きちんと果たした。ブラジルのサッカーの良さを、スタートしたばかりのJリーグに、もっとも適切に、妥協することなく持ち込んだ。
 そういう精神的な面で、プレーヤーたちにとっても、フロントにとっても功労者だった。 
 ジャジャーン!
 だから、この機会に、ジーコの日本における功績を歴史に留めることにしたい。

☆五輪チームは殊勲賞 
 「でも、1996年度の、もっとも大きな出来事は、アトランタ・オリンピックで、日本がブラジルに勝ったことじゃないのか」
 と、別の友人が口をとがらせた。
 たしかに、日本のサッカーが、ブラジルやハンガリーに勝つなんて、ぼくのような古手のジャーナリストにとっては夢のようなことだった。 
 しかしである。 
 あれは、オリンピックだ。ワールドカップじゃないんだ。 
 それに、守りに守ったブラジル戦の戦いぶりには、発展性がないように思われた。西野監督のチーム作りや作戦指導も、ぼくの気にはいらなかった。
 「個人の好き嫌いで賞を決めるのか」と、友人は、また口をとがらせた。だが、これは権威ある賞ではあるが独断と偏見が売り物でもある。 
 とはいえ、若者たちがテレビの国際中継を通じて、日本の茶の間に感銘を与えたことを評価して、殊勲賞を贈ることにする。  
 ハンガリー戦のとき、最後の最後に日本にコーナーキックがあった。そのときゴールキーパーの川口能活君が、敵のペナルティー・エリア内まで出ていって得点を狙った。それが、おとりにもなって同点ゴールが入った。川口君の奔放な若者らしい行動には、殊勲賞を贈ることにする。ブラジル戦での獅子奮迅の守りも考慮して、技能賞も出しておこう。 
 技能賞は、2002年の会場を15から10に絞った日本サッカー協会の英断だろうって? いや、これは、冗談、冗談!


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