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サッカーマガジン 1996年9月4日号

ビバ!サッカー

総括、ああ!アトランタ

 アトランタの熱い戦いも、終わってしまえば、あっという間だった。日本代表選手たちは、ほっとする間もなく、Jリーグ・ヤマザキナビスコカップを戦っている。でも、しつこいようだけど、もう一度、アトランタを振り返って、オリンピックの在り方を考えてみたい。

☆五輪はショーケース?
 日本のサッカー選手たちは、アトランタから帰ってすぐに、再開されたナビスコカップで頑張っている。一躍、国民的スターになった川口能活がマリノスのゴールを守って、オリンピックのときと変わらぬプレーを見せているのが、なかなかいい。
 サッカーファンにとっては、前から川口はおなじみだったが、いまでは町のおじさん、おばさんが、みな川口の名前と顔を知っている。これは、日本がブラジルを破ったときの神懸かり的な好守のおかげである。
 「これは、オリンピックの一つの効用だな」と思う。
 オリンピックというショーケースのなかの川口を見た人たちは、同じスターが自分たちの町の試合でも、同じプレーをしているのを知って「じゃあ、Jリーグを見に行ってみるか」という気持になったかもしれない。
 サッカーだけではない。陸上競技のトラックの選手たちは、翌週から欧州を転戦するグランプリのレースに出ている。テニスのプレーヤーたちも、世界を転戦するサーキットに戻って行った。
 「4年たったら、また会いましょう」という時代ではない。世界のトップクラスのプレーヤーは、毎週毎週、世界のどこかで顔を合わせている。プロでもアマチュアでも、スポーツは日常のものであり、グローバルなものである。
 オリンピックは、その隙間を縫ったイベントなのだけれども、しかしショーケースとしての役割は果たしている。

☆楽しもうとしたが…
 水泳の女子選手が、アトランタに出掛ける前の記者会見で「オリンピックを楽しんできます」と話していた。ドジャースの野茂投手が、米大リーグにデビューした昨年、オールスターゲームの出場選手に選ばれて「ゲームを楽しんできます」と語ったのを真似したのだろう。
 亜流でも本音ならいいじゃないかと、ぼくは思ったのだが「不謹慎だ」と感じた人もいたらしい。
 その水泳選手は「期待に反して」メダルをとれなかった。それでもテレビに追い掛けられ。ここでは、つい本音を口走ってしまった。
 「そんなにメダル、メダルって言うんだったら、自分で泳いでみろっていうんですよ……」
 ぼくは、このテレビを直接見たわけではないが、若い女の子がマスコミに責め立てられたすえの発言だろうと、大いに選手の方に同情した。
 ところが、ぼくが神戸で読んだ新聞の論評は、だいぶ様子が違う。
 「あのテレビ発言には……驚き、不愉快な気分にさせられた」
 「仮にも国を代表するような選手が、公に口にすることが許される言葉かどうか」
 日の丸を付けて、国民の税金を使って参加しているのだから、楽しみに行くなんて、とんでもない。必ずメダルを取るべきだ。取れなかったのだから、反省して、しおらしくしているべきだのに、開き直るなんて、とんでもない――そんな怒りが読み取れるような論評だった。
 怒るほうが時代錯誤じゃないか、とぼくは思ったのだが……。

☆だからスポーツくじ?
 サッカーの川口くんだって、水泳のOOちゃんだって、お国のためにオリンピックに参加している気持は、ほとんどないんじゃないか。
 子どものころから、好きでボールを蹴っていて、あるいはプールで泳いでいて、素質があって、努力もしたから日本代表になれた。
 オリンピックに出るからにはメダルは取りたい。メダルは取りたいけれど、それはまず、自分自身のためであり、次には身近で援助してくれた、お母さんやお父さんや、あるいはコーチや先生のためである。
 サッカー選手の場合は、応援してくれているファンのためにも、ということはあるかもしれないが、お国のためにとか、国民のためにと言われても、ピンとこないのではないだろうか。
 「オリンピックには、国民の税金を使って派遣されてるのだから」という声が聞こえてきそうである。
 実際には、政府補助金はオリンピック派遣費のごく一部であるにしても、税金が少しでも含まれていれば大きな声で「国民の発言権」を主張する連中は出てくるものである。
 ぼくは、オリンピック派遣費の一部を税金で援助するのは結構だと思う。
 しかし、わずかな金額で偏狭なナショナリズムを押しつけられるのでは、選手たちは迷惑である。
 だから税金以外のお金で派遣費をまかないたい。
 そのためには、懸案の「スポーツくじ」がいい。
 オリンピックに援助したくない人は、くじを買わなければいい。


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