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サッカーマガジン 1996年8月21日号

ビバ!サッカー

続 ああ! アトランタ

 猛暑のなかのアトランタ・オリンピックで若い日本代表はよく戦った。ブラジルやハンガリーに勝つなんて夢のようである。40年前の日本のサッカーは、ヨーロッパのセミプロ・チームに10点差を付けられる程度のレベルだった。それが、ここまで伸びたのは…。

☆夢のような勝利!
 若い日本代表チームのアトランタ・オリンピックのサッカーでの成績は、ぼくたちの年代のファンから見ると、本当に夢のようである。
 ぼくがサッカー・ジャーナリストになったばかりのころ、1958年のワールドカップで、ブラジルが優勝した。ペレが17歳で世界のスターになり、ブラジルの4−2−4システムの戦法は、世界のサッカーを大きく変えた。
 そのころの日本には、海外のサッカーのことは、ほとんど伝わってこなかった。テレビはなかった。活字だけが頼りだった。ぼくたち、少数のサッカー好きのジャーナリストが、横文字を縦に直して伝えるのが、海外情報の窓口だった。
 そんな活字だけの情報で「プラジルって、どんなサッカーなんだろうな」「ペレってどんなプレーをするんだろうな」と想像し、あこがれていただけだった。
 そのブラジルと対戦しても、なんら怖じけるところがなく、勝っちゃう時代が、ぼくが生きているうちにこようとは……。いまでも「本当だろうか」とほっぺたを、ときどきつねっている。
 ブラジルが世界一になる前には、ハンガリーが、あこがれのチームだった。1953年に、サッカーの母国だと誇っていたイングランドを、地元のウェンブリー・スタジアムで破ったことを、これも横文字のニュースで知っていた。
 日本のオリンピック・チームはそのハンガリーにも、見事に逆転勝ちした。夢のまた夢が正夢になった。

☆ハンガリーに学んだ時代
 ハンガリーが夢のチームであったころ、英国で出たハンガリーのサッカーについての本を、和歌山県新宮市の指導者だった大前靖さんという方が手に入れて翻訳し、それを大阪の朝日新聞にいたサッカー・ジャーナリズムの大先輩の大谷四郎さんの仲介でサッカー協会の雑誌に紹介したことがある。そのころ、ぼくはサッカー協会の雑誌の編集を手伝っていたので、この間の事情を、よく知っている。
 この本は「ハンガリーの方法に学ぶ」という題の少年サッカー指導法のマニュアルだった。いまだったらビデオで見るところだが、活字だけが頼りの時代だから、本の行間から海外の指導法を読み取ろうとしたわけである。
 いま考えて、大前さんや大谷さんが偉かったのは、情報のきわめて乏しい時代に、広く世界に目を配り、適切な文献を苦労して手に入れ、それを自分で利用するだけでなく、広く日本全体に知らせようと努めたことである。
 目の付けどころも鋭かった。
 当時はサッカーは大学のスポーツで、子どもたちの間には、ほとんど普及していなかった。また「走れ、蹴れ」が全盛で、技術よりも体力と気力が強調されていた。
 そんな時代に、少年たちにボール扱いのテクニックを教えるためのマニュアルを探し、それを日本に紹介した先見の明がすばらしい。
 しかも、敗戦直後の苦しい生活のなかで労力と知力の無償の奉仕だった。

☆種を播いた人びと
 あれから40年。日本のサッカーの変わりようには目をみはる。
 日本の至る所で少年たちは巧みにボールを扱っている。半世紀前のハンガリーの子どもたち以上に、よく教えられ、その中からアトランタヘ出場したタレントが生まれ、ハンガリーを堂々と破ったわけである。
 チームの戦いぶりは、ブラジル以上に組織的で、守りは激しい。 個人の戦術的判断力では劣るけれども、それをチームプレーと労働量で補って勝負には持ち込み、つきについていたとはいえ、とにかく勝った。たいしたものである。
 40年前には、チームを海外に送り出すためには、血の汗を絞り出すような思いで資金を出しあい、選手たちも身銭を切って遠征費を工面したものだ。
 しかし、いまではオリンピックに出場するだけで何百万円ものボーナスがもらえる時代である。役員たちは、ファーストクラスの飛行機で世界をかけめぐっている。
 あれもこれも、苦しい時代に苦労して無償の努力をした先輩たちのおかげだと、ぼくは思う。
 大前さんと大谷さんだけではない。いろいろな先覚者が、種を播き、苗を育てて、それを全国に無料で配布した。その先輩たちの多くが、その収穫を見ることなく亡くなったのは非常に残念である。
 日本の若いプレーヤーの成長を喜び、その健闘を讃えたい。
 しかし、水を飲むときには井戸を掘った人を忘れず、収穫の時には、別に種を播いた人がいることも思い出すことにしたい。


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