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サッカーマガジン 1996年1月31日号

ビバ!サッカー

高校選手権のあゆみ!

 正月のサッカー高校選手権は、鹿児島実業と静岡学園の両校優勝だった。この大会を40年近くにわたって見てきているが、九州の最南端のチームが優勝し、技術重視のサッカーが実を結ぶなんて夢のようだ。「時代は移るとも、高校サッカーは不滅です」と言いたい気持である。

☆静学の信念を讃える!
 静岡学園が19年ぶりに決勝に進出したのを見て「ああ、あれから19年もたったのか」と感慨無量だった。
 19年前、高校選手権は関西から首都圏に移ってきた。
 会場地移転の背後には、テレビ放映があった。大がかりなテレビ中継をするために、関西よりも首都圏のほうが都合がよかったからである。
 そのとき、国立競技場で行なわれた高校選手権決勝戦は、浦和南対静岡学園だった。
 これは壮絶な試合だった。静岡学園の追い上げに、浦和南の松本暁司監督が「心臓の音が聞こえる」という名台詞を残した。
 この試合には、大きな歴史的意義があった。
 それは、個人技のサッカーが、みごとに市民権を得たことである。
 当時の高校サッカーの主流は「体力と精神力」だった。浦和勢は、当時としては個人の技術レベルが高かったが、それでもチームプレーが武器だった。     
 そのなかで静岡学園の井田勝通監督は「ドリブルだ、ドリブルだ」と叫んでいた。「持ちすぎるな」「パスをしろ」「大きく蹴れ」が、高校サッカーの共通語だった時代に「ドリブルのサッカー」が決勝に進出したのがすばらしかった。    
 静岡学園のサッカーは、大きな名声を得ながら、静岡県のなかでは非主流派として苦労したらしい。それに屈しないで、技術のサッカーをひっさげて、今回ついに全国のタイトルをとったのはすばらしい。井田監督の19年の信念を讃えたい。

☆鹿実の健闘を讃える!
 決勝戦は延長のすえ引き分け、規定によって両校優勝、優勝旗は半年ずつ、持ち回ることになった。
 「これでいい」と思う。
 古い奴だとお思いでしょうが、PK戦で優勝を決めるなんてことは、スポーツの良さを踏みにじるものだと、ぼくは信じている。
 PK戦は、引き分けの場合に次のラウンドに進出するチームを決めるための手段にすぎない。
 したがって、決勝戦でPK戦をする必要はない。両校優勝でイレブン×2の健闘を讃えようではないか。
 健闘といえば、鹿児島実業の優勝は、まさに健闘だった。決勝戦終了寸前の同点ゴールもさることながら、初戦の帝京との接戦をはじめ、一つ一つの試合が、全力を尽くしての戦いの成果だった。
 「日本の端っこの」などと言うと鹿児島県の方に叱られるかもしれないが、北の室蘭大谷から南の鹿児島実業までが歴代の決勝戦進出チームのなかに名を連ねたこと。つまり全国津々浦々に優勝が狙えるチームが誕生していることが、うれしい。
 首都圏や関西のチームだけがトップレベルだった時代もあるし埼玉、静岡、広島のサッカーどころが優勝を争っていた時代もある。しかし、いまや、サッカーは全国区である。
  誤解のないように付け加えると、鹿児島実業の進出は、決して頑張りだけの成果ではない。
  技術のある少年たちを育て、遠くブラジルのサッカーにも学んだ地道な、視野の広い努力の成果であることも忘れてはならない。

☆75年史の編集を!
 静学と鹿実が優勝を分けたことに、ぼくは歴史を感じている。
 東京の新聞社に入社して、最初に高校選手権を取材したのは1957年正月の大会だった。そのころは、高校選手権は兵庫県の西宮で開かれていた。新幹線はまだ着工もしていない。正月早々、東海道線の寝台列車で朝、大阪駅に着き、阪急電車で会場に駆け付けたものだった。
 また、この大会は大正時代の創設以来、毎日新聞社主催だった。同じ毎日主催で同じ時期にラグビーの高校選手権があり、紙面の扱いが、ラグビーのほうに傾いているようで、サッカーファンとしては釈然としない思いをしていた記憶がある。
 このころは、広島勢と埼玉の浦和勢が優勝を争っていた。
 静岡勢も台頭したが、現在のように清水市の高校ではなく、藤枝東だけだった。
 いまは、会場は関西を離れて首都圏に移っている。毎日新聞社は、この大会を放棄し、マスコミでは日本テレビが軸になっている。浦和、広島、静岡のご三家の争いは遠い昔になり、いまや全国至る所から優勝チームが出る。
 次回は第75回大会になる。
 実は15年前に不十分なものではあるが、高校体育連盟に協力して「高校サッカー60年史」の発行を手伝ったことがある。
 その不十分だった点を補い、その後の歩みを継ぎ足して「高校サッカー75年史」を今年度に編集し、静岡学園や鹿児島実業の成果も、しっかり書き留めておいてほしいと思う。


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