アーカイブス・ヘッダー

 

   

サッカーマガジン 1996年1月24日号

ビバ!サッカー

天皇杯名古屋優勝の意義!

 第75回天皇杯全日本選手権はグランパスの優勝だった。ベンゲル監督は、Jリーグ下位だったチームを見事に日本一に育てあげた。その手腕にまず敬意を表したうえで、ベンゲル監督が日本のサッカーに何か新しいものを持ち込んだのかどうかに、これから注目していこう。

☆ベンゲル監督に特別賞
 「サッカー大賞をベンゲルとグランパスにも」という注文を付記した年賀状を、愛知県の友人からもらった。年賀状を書くのは前年の暮れだから、優勝が、まだ決まっていない段階での注文である。しかも印刷してある部分で、ちゃんとグランパスの優勝を予見している。ちょっと引用させてもらう。
 「あけまして、おめでとう、ございます。1996年、楽しくなければ人生でない」とあって次に、こう書いてあった。
 94年2ndステージ最下位
 96年「天皇」杯チャンピオン(予定)
 名古屋グランパスエイト躍進の秘密は すばらしい指導者ベンゲル監督が選手の能力を分析し、選手に自信をあたえ、しかもフロントに意見を言う……
 うーむ、たいした見識、たいした自信である。
 ベンゲル監督のことではない。この年賀状の筆者である。
 元日に年賀状を受け取った人は、その日のうちに、予定どおりグランパスが優勝したことを知ることになった。それがベンゲル監督の手腕によることを、国立競技場でぼくも確認した。 
 そこで、ビバ!サッカーによるサッカー大賞の選考結果は、すでに前号で発表済みではあるが、
 ジャジャーン!
 ここに、アーセン・ベンゲル監督にビバ!サッカーから特別賞を贈ることにしまーす。

☆若手を育て、生かす!
 ベンゲル監督の手で、グランパスが良くなった点のひとつは、守備ラインである。
 トーレスを中心にした4人のラインによるゾーンの守りが、しっかり安定していた。カップ戦を勝ち上がることのできた大きな理由は、守りの安定だったと思う。
 とはいえ、注目されていたのは、攻めのほうである。その切り札は、ストイコビッチだった。
 決勝戦でサンフレッチェは、ストイコビッチをベテランの小島にマークさせた。サンフレッチェの守りは、グランパスとは対照的なマンツーマンである。相手のツートップのうちの小倉のほうには若手の上村をつけ、成長株の柳本がスイーパーだ。この堅く、厳しい守りは、ストイコビッチを抑える点では、かなり成功していた。
 しかし、ベンゲル監督は、その対策を用意していた。
 ベンゲル監督は、試合後「平野のところからチャンスが生まれるだろうと考えていた」と打ち明けた。前半18分の先制点は平野の鋭い切り返しを利かしたドリブルからだった。後半7分の2点目も平野が切り返してかわしたあとのセンタリングから生まれた。その1分後の3点目は平野自身のゴールだった。
 グランパスは、ボールを奪ったあとすばやく、前線のオープンスペースへ大きく出す攻めが多かった。しかし決定的な場面を作ったのは、平野のドリブルだった。
 平野は清水商出の21歳。若手を伸ばし、生かして使ったところがすばらしい。

☆コレクティブなサッカー
 勝利後の記者会見で「グランパスが成功した原因は何か?」という質問が出た。
 ベンゲル監督は「コレクティブ・フットボールができたこと」と答えた。訳せば集団的サッカー、つまりチームプレーということだ。
 これに対して鋭い質問が続いた。「きょうのゴールは、平野の個人的ないいプレーから生まれたじゃないか? チームプレーでなく、個人的なプレーがチャンスを作ったのではないのか?」
 これに対するベンゲル監督の答えは、こうだった。
 「集団でプレーするには、個人的な技術を生かさなければならない」
 これは、まったく正しい。
 個人の技術を集めて集団的プレーになる。それがチームプレーだ。したがって、チームプレーより先に、個人の技術がなければならない。
 しかし、個人が自分勝手に技術を発揮するつもりでは、試合には勝てない。だから個人の技術を、どの場面で、どのように使えばいいかを、ひとりひとりのプレーヤーが、それぞれ心得ていなければならない。それが個人の戦術能力である。
 ストイコビッチが抑えられているときに、若い平野は、自分が個人技を発揮すべきときを知っていた。他のプレーヤーは、それを生かすべき集団的プレーを心得ていた。
 そういうサッカーを、Jリーグでも実らせてくれれば、1996年元日の名古屋グランパスの優勝は、大きく日本サッカー史に残るものになるだろう。


前の記事へ戻る
アーカイブス目次へ

コピーライツ