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サッカーマガジン 1995年10月18日号

ビバ!サッカー

プロ選手の社会的責任

 レッズの田口禎則選手の起こした事件は、まことに残念だった。スポーツ選手が特別に人格高潔であるなどとは思っていないが、スポーツ選手であっても、一般の社会人と同じように常識をわきまえてほしい、プロのスターは、社会的影響力が大きいのだから、なおさらである。

☆社会人にあるまじき
 「スポーツマンにあるまじきことだな」と友人がいう。
 Jリーグ・レッズの田口禎則選手が、浦和市内でサポーターの男性に乱暴した事件である。
 ぼくに言わせれば、これは「社会人にあるまじき」事件である。 いい大人が子どもみたいな噴嘩を売ったら、スポーツマンであろうとなかろうと、世間は一人前の扱いはしてくれない。
 プロであろうが、アマチュアであろうが、サッカー選手であろうが、絵描きさんであろうが関係ない。乱暴した方は、かりに当事者の間で示談が成立していても、また警察が大目に見てくれていても、社会的制裁を受けるのは仕方がない。 
 会社のセールスマンが、お客さんを殴ったら、お客さんが警察ざたにしなかったとしても、会社はセールスマンを懲戒解雇するに違いない。かりに、相手のお客さんが札付きのワルだったにしてもである。そして懲戒解雇された前歴は、そのセールスマンの再就職の大きな妨げになるだろう。それが社会的制裁というものである。 
 「スポーツマンにあるまじき」という言い方には「スポーツマンとして良くないことをしたからスポーツの世界での処罰はする」というニュアンスがある。 
 しかし、これはスポーツの仲間うちの事件ではない。もっと広い社会のなかで起こした事件として考えなければならない。会社にあたるレッズとJリーグは、会社に不利益をもたらした不祥事として、厳しく受けとめなければならない。

☆プロにあるまじき
 こういうふうに考えれば、Jリーグの規律委員会が決めた4カ月の出場停止は、他の例からみても、いかにもあまい。ぼくは「無期限」の出場停止にすべきだと思う。
 無期限は「永久追放」ではない。期限を定めないで出場停止にし、社会的制裁を十分受けて反省の実があがった時点で処分を解除するという意味である。
 「しかし、プロ選手だからな。出場停止だと、おまんまが食えなくなる」と今度は友人が弁護に回った。
 だが、これも、ぼくに言わせれば 
 「スポーツは特別だ」という潜在意識に根を降ろした意見である。
 おまんまの食い上げになるのは、会社をクビになるセールスマンだって同じである。スポーツをしてようが、自動車を売ってようが、不都合なことをすれば仕事を失う。再就職が困難なのも同じである。
 だからこそ、一人前の社会人は、どんなことをすればクビになるのかを知っており、おまんまの食い上げにならないように社会人としての規律を守るわけである。その常識をわきまえているのが、プロフェッショナルである。 
 別にスポーツ選手だけがプロであるわけではない。自動車のセールスマンもプロだし、銀行員もプロである。社会の一員として、社会的役割の一端を担って、それに対する報酬として、お金を稼いでいる。それがプロである。 
 だから「社会人にあるまじき」というのは「プロにあるまじき」というのと同じことである。

☆アマチュアだったら? 
 「じゃ、アマチュアだったら責任は軽いのか」と友人が、屁理屈をこねた。 
 今回のように、レストランで顔を合わせて、喧嘩を売って乱暴をしたのはスポーツのプロであろうと、アマチュアであろうと関係ない。社会の一員としての責任を問われなければならない。 
 「しかし、プロサッカー選手でなければ、こんな大騒ぎにはならないだろう。アマチュアだったら穏便にすんだかもしれない」 
 友人は、しつこく食い下がる。 
 それはその通りである。Jリーグの選手は、個人として社会的に大きな影響力をもっている。そういう人たちの社会的責任は大きい。 
 これは必ずしも、プロ選手がたくさん報酬を得ているからではない。 
 ぼくは、いま大学の教員をしているが、かつて新聞記者をしていたころよりも、個人としては社会的責任を感じている。 
 社会的影響力は、新聞記者のときの方が大きかった。しかし、それは個人としてではなかった。 
 しかし、いま、教員としては学生に個人として影響力をもっている。だから、個人としてもでたらめはできない。給料は安くても、酔っ払って飲み屋でわめいたりしたら「先生ともあろうものが」と手厳しく指弾されるだろうと恐れている。反省すれば、新聞社勤めのころは、ずいぶん、いい加減だった。 
 プロ選手は、はるかに給料が多いのだから、社会的な立場を十分自覚してもらいたいものである。


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