猛暑のなかで、よくやるなあと思う。夏の高校野球、甲子園大会のことである。暑さのなかの頑張りをマスコミが賛美するのは、高校総体や少年サッカー大会も同じだが、真夏の甲子園には、また独特の哲学があるようだ。サッカーとの違いを、テレビを見ながら考えた。
☆選手宣誓のアナクロ
夏の甲子園、全国高校野球選手権大会の開会式をテレビで見ていて、その時代遅れに驚いた。77年一日のワンパターンである。
「さあ、選手宣誓です」
ぼくの小さな灰色の細胞が、半世紀以上昔に向かってロールバックしはじめた。
がっしりとした、しかし、ちょっと小太りの球児が大写しになった。
「うむ、現代っ子らしい好青年だな」
と思ったのは、ぼくの年齢のせいである。
思い出したのは、かつて甲子園のヒーローから南海ホークスにはいり「ドカベン」と愛称されたキャッチャーだ。10年以上前の話で、いまの読者から見れば昔話に違いない。
現代のドカベンが列の先頭に出てきて、キッとくちびるを結んだとき、次の行動が予測できた。
両腕のひじをピシッと曲げ、両手のこぶしを腰にサッと当て、マラソンのランナーをスローモーションにした走り方で正面に向かう。ぼくが小学校の体操の時間にやらされた駆け足のモーションである。
「私たちはーっ、スポーツマンシップにーっ、のっとりーっ、正正っー、堂堂とーっ…」
こう言ってるんだろうなと、選手宣誓の内容は想像しただけである。
悲鳴のようなきれぎれの絶叫は、中学1年生のときに強制された軍事教練の突撃の叫びに似て、何を言っているのか分からなかった。
そういえば、今年は戦後50年である。
☆坊主頭の哲学
高校球児の大半は、丸刈りの坊主頭である。たまに公立高校の長髪の選手がいると、かえって、すがすがしい感じがする。
これも、もう、20年以上昔の話だが、正月の高校サッカーが民放テレビで中継されはじめたとき、長髪の選手が多いので世間の話題になったことがある。
そのころ、ぼくは、こう書いたものである。
「外側を変えれば中身も変わるのなら、髪型を変えるのも、いいじゃないか」
マンチェスター・ユナイテッドにジョージ・ベストがいて、長髪をなびかせ、華麗なフェイントをスピードに乗せてファンを魅了していたころである。
ベストの長髪を真似る部員が出てきて指導の先生方を悩ませた時期もあった。
「髪型を同じにすれば、同じプレーができるのなら、長髪にした方がいい」
これは、もちろん、冗談のつもりだった。髪型を変えても、中身の灰色の細胞まで変わるはずはない、と思っていたからである。
しかし、高校野球の指導者の主流は、外側を変えることによって中身を変える可能性を信じているのではないだろうか。
清潔な坊主頭にすることによって、みんながスポーツマン精神にのっとり、正正堂堂とプレーするようになると考えているのではないだろうか。
だから甲子園の球児たちは坊主頭なんだろう、と想像した。
☆サッカーとの違い
坊主頭の哲学は、野球に適しているのかもしれない。
たとえば一死一、三塁。このケースには、いろいろな選択がある。
バントで送って二死二、三塁として、次の打者のヒットに2点を賭ける手もある。
ラン・アンド・ヒットで1点を狙い、なお走者を残して迫加点を求める手もある。
ダブルスチールで1点をとり、アウトカウントを増やさないで後続打者による大量点を狙う手もある。
どれを選ぶかは打者の選択ではなく、監督からのサインによる。
そのとき、打者や走者が、別の選択をしては困る。みなが坊主頭であるように、みなが同じ考えに従わなければならない。
サッカーの場合は事情が違う。
あるプレーヤーがボールをもらったとき、いろいろな選択がある。
逆サイドに振るか、近くの味方とワンツーで突破するか、ドリブルで抜けるかなどの選択肢がある。
決定権を持つのはボールをキープしているプレーヤーである。その頭脳にひらめくアイディアで次の展開が決まる。他のプレーヤーは、それぞれのアイディアで、それに呼応する。
そのアイディアが、ワンパターンでは困る。敵に出方を読まれてしまうからである。だから、それぞれのプレーヤーの灰色の細胞には、それぞれの個性が組み込まれていなければならない。
サッカーの場合は、その個性が、いろいろな髪型になって、外に表れるのだろうか、と考えた。 |