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サッカーマガジン 1995年4月26日号

ビバ!サッカー

サッカーとことば

 「ことば」によってサッカーが変わるだろうか。南米・欧州、日本のサッカーのスタイルが、それぞれ違うのは文化の違いによるとされているが、それは「ことば」と関係があるだろうか。などと考えている。新しい大学で新しい講義を持つことになったからである。

☆兵庫大学のスタート!
 私事にわたって恐縮しないのが、わがビバ!サッカーの伝統である。なにしろ創刊号以来30年、500号にわたって公私混同、好き勝手に書き続けてきたのだから、いまさら恐れ入ったってしようがない。
 さて私こと――。
 この4月から勤め先の籍が「兵庫大学」に変わった。
 といっても、しばしば、このぺージで紹介してきた水とみどりに囲まれた環境絶佳の加古川のキャンパスを離れたわけではない。また明るく元気いっぱいの女子学生がいなくなったわけではない。
 同じキャンパスのなかに新しく男女共学、4年制の経済情報学部ができたので、そちらに移籍したわけである。
 新大学に変わって腕時計を取り替えた。軽くて安いものを愛用していたのだが、古いストップ・ウォッチつきを引き出しの奥から引っ張りだして使っている。
 この腕時計は、ヴェルディの前身の読売サッカークラブが、1983年に日本リーグで優勝したときに、当時勤めていた読売新聞社から、もらったものである。
 1969年の創設から読売クラブにかかわっていて「20年たったら日本一にしよう」と言っていたのが、14年で実現した。それで記念にもらった腕時計である。
 「20年後までに兵庫大学を日本一の大学にしよう」
 新しい先生と新しい学生に、こう話し掛けるための話の種に、腕時計を取り替えたのである。

☆論説と議論とサッカー
 「新しい大学で、まさかサッカーを教えるんじゃないだろうな。男子学生を相手に実技をやったら、今度こそ骨折するぞ」
 と友人がおどかした。
 ご心配なく。
 新大学では「社会情報論」というタイトルでジャーナリズムを講ずることになっている。そのほかに「論説と議論」という講義もある。
 「論説と議論? そりゃ、一体なんだ」
 と友人が目を丸くした。
 実は本人にも、よく分からないのだが、ことばと文章で自分のアイディアを自由自在に述べるにはどうすればいいかを、学生といっしょに研究しようと考えている。
 「大学なんだろ。ジャーナリストの安直な考えではだめだぞ。言語学はソシュールの共時的同一性とか、サピア・ウォーフの仮説とか難しいんだぞ。サッカーとはなんの関係もないぞ」
 分かってる、分かってる。
  サッカーだって「ことば」と関係はある。
 日本ではサッカーのことは、もともと蹴球(しゅうきゅう)と言っていた。ボールを蹴るスポーツという意味だ。
 ところが中国では足球(ずうちゅう)という。これはフットボールの直訳で足技のスポーツである。
 「蹴球時代の日本では、ボールを蹴るばかりで足技のうまいプレーヤーが育たなかったんだ。ことばによって文化も変わるんだ」と、ぼくは強弁した。

☆サッカー用語いろいろ
 そのほかにも、サッカーと「ことば」には、いろいろな関係がある。
 1970年のワールドカップでメキシコに行ったとき、税関のお役人が、じゃんけんのチョキのような形で指を出し、中指と人差し指を机の上に立てて交互に素早く動かし「サッカーで来たのか」と質問した。つまりドリブルするかっこうを指でして見せたわけである。
 ぼくたちだったら、中指を机のうえに立て人差し指でボールを蹴る形を作って見せただろう。メキシコではフットボルであり、日本では蹴球だったからである。身振りも「ことば」の一種である。ここにも文化の違いが表れている。
 ものの本によるとスペイン語には「蹴る」という動詞はない。「ボールに足を与える」というような言い回しで「蹴る」を表現するのだそうだ。ワールドカップの時にもらったサッカー用語辞典のパンフレットには、「チュタール」という単語があったが、これは「シュートする」という意味で、もともと英語のシュートを、そのまま取り入れた外来語のようだ。
 いま、ぼくたちは蹴球にかえてサッカーを使っている。これは「アソシエーション・フットボール」のアソシエーションが縮まったもので「協会ルールによるフットボール」という意味である。
 蹴球がサッカーに変わって、技術的、あるいは社会的影響があっただろうか。
 付け加えれば、韓国では蹴球(ちゅく)で、イタリアでは、ご存じカルチョである。


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