「サッカー・マガジン」が通算500号を迎えるという。日本初の本格的商業専門誌としてスタートしたときは「サッカーの雑誌がビジネスとして成り立つのだろうか」とかなり心配したものだが、いまとなっては、ベースボール・マガジン社の先見の明に敬意を表するだけである。
☆W杯からのスタート
「サッカー・マガジン」500号は、ぼくにとっては501号である。創刊号の前に「スポーツ・マガジン」というタイトルで「サッカー特集」を出し、これが実は創刊準備号だった。これで売れ行きの様子を見て、月刊に踏み切ったわけである。
この創刊準備号に、ぼくも記事を書いている。1966年、イングランドでワールドカップが開かれた年だったから「ワールドカップ物語」と題して大会の性質や歴史を紹介した。いまだったら誰でも知っている話ばかりだが、その当時、町の書店で売っている本にワールドカップの本格的紹介を載せたのは、これが史上初だったのではないだろうか。
6月号が創刊号で、これにはイングランド大会の展望を書いた。9月号と10月号では大会の様子を紹介している。
このころは、まだ海外旅行は、そう簡単ではなかった。ぼくは新聞社の新米記者だったから「ワールドカップを見たいから外国にいかせてくれ」なんて、言い出せるわけがなかった。イングランド大会の記事は、東京の新聞社に入ってくる外電を片っ端からため込んで、それを材料に書いたものである。
テレビ中継もなかった。だから、外電から盗作? した記事でも貴重な情報源だった。「お前、イギリスまで行ったのか。よく会社が行かせてくれたな」と友人に感心されて、返事に窮したりした。
あれから30年、ずっと書き続けさせてもらっているのだから、我ながら、よく続いているものだと思う。
☆関谷勇氏の功績
サッカー・マガジンの初代の編集長は、関谷勇さんである。
創刊準備号を出すときに、関谷さんが訪ねてこられて「サッカーの専門誌を月刊で出す計画がある」と相談を持ち掛けられた。
なぜ、若造のぼくのところに来られたかというと、当時、サッカー協会で出していた雑誌「サッカー」の編集を手伝っていたからである。この雑誌は、加盟チームに配布するためのもので市販の商業誌ではない。印刷部数も僅かなものだった。
その程度の経験と知識をもとに、ぼくが生意気を言った。
「とても月刊じゃもちませんよ。年4回くらいが、いいところじゃないですか」
ベテランの編集者である関谷さんは、心のなかでは苦笑いされたことだろう。しかし、真面目な顔で、こう話してくださった。
「いや、月刊で出せないようだったら、年4回では成り立ちません。月刊でなければ、はじめから出しません」
実は、岡野俊一郎さんにも、ぼくと同じようなことを言われたという。岡野さんは、いまは国際オリンピック委員会の委員であり、日本サッカー協会の副会長だが、当時はもちろん、まだ若造だった。
プロのなかのプロ編集者である関谷さんから見れば、2人の若造の意見は、ちゃんちゃら、おかしかったに違いない。
サッカー・マガジン創刊の功労者として、関谷さんの名前を忘れることはできない。
☆サッカー列島改造論
30年にわたって書き続けてきたサッカー・マガジンの記事で、ぼくにとって、もっとも思い出深いのは、1972年の10月号と11月号に載せた「サッカー列島改造論」である。
読み物ふうに書きはしたが、内容は、ちょっとした論文で、こんな個人的な意見を商業誌が、よく載せてくれたものだと思う。
全国の地方都市を拠点に、サッカーのクラブを作ろう。クラブにはプロフェッショナルも、アマチュアもいるような組織にしよう。地域のスポーツ振興の拠点として、クラブを代表するサッカーチームが全国リーグの組織に参加するようにしよう。
こういう趣旨だった。
それよりも3年前、1969年10月号にも「スポーツ・クラブを育てよう」という記事を書いている。現在のヴェルディの前身である読売サッカークラブ創設の趣旨について書いたものである。
つまり、地域に根ざしたクラブ組織によるプロ・サッカーという現在のJリーグの考え方を、25年以上前にキャンペーンしたものだった。
サッカー・マガジンを読んで、ぼくの考えに共鳴してくれた人たちもいる。
地方の高校の選手で、東京の大学に進学したあと、サッカー列島改造論を読んだといって、ぼくを訪ねてくれた学生もいた。
すべてが、ぼくの記事の影響だと思っているわけではない。しかし、サッカー・マガジンを通じて、日本のスポーツの考え方を変えていくことに、少しは役立ったのではないかと誇りに思っている。
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