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サッカーマガジン 1995年3月8日号

ビバ!サッカー

大震災とサッカー、その後

 悪夢のような1月17日の兵庫県南部地震から1カ月以上たって、この大震災は、関西のサッカーに少なからぬ影響を及ぼすのではないか、と心配になってきた。子どもたちは、避難所で明るくボールをけって、おとなに希望を与えているが、厳しい現実にも目を向ける必要がある。

☆グラウンドがつぶれる!
 風光美しく、気候穏やかで、人びとは心やさしいと、この「ビバ!サッカー」に、なんども書いてきた。ぼくが住んでいる兵庫県加古川市のことである。
 宿舎は、グラウンドの片隅にあって、2階のぼくの部屋から見ると、広いグラウンドが広がっている。サッカーゴールもある。
 しかし、まったく利用されていない。これは、もったいないから、授業で「女子大生のサッカー実技」をやってみた。そうしたら隣接の付属幼稚園の子どもたちが、白黒のボールをけりはじめた。この話も紹介した。
 わが加古川の学園は、サッカー狂の目から見ても前途洋洋だった。
 1月17日に大地震が襲ったとき、加古川は、比較的損害軽微だった。隣接する神戸、須磨、明石地域の災害を救援しようといいながらも、実は、いささか、のんびりしていた。 
 しかし、日がたつにつれて、大災害の影響は加古川にも及んできた。
 わが学園の女子高校が須磨の浦にある。その校舎が記念館一つを残して壊滅した。被害を調べているうちに、結局、全部こわして再建計画を立てなければならないことが分かってきた。 
 そこで、ぼくの宿舎から見下ろせるグラウンドいっぱいに、仮設の校舎を建てて1300人の女子高校生をとりあえず引き取ることになった。すでに工事が始まっている。
 まことに止むを得ないことではあるが「わが学園にサッカーを」という夢は、2年くらいは延期するほかはない。

☆全員、地域活動に!
 これは、身近に起きたほんの一例である。阪神地域では、もっと深刻な事例が、数えきれないほど、あるに違いない。
 ぼくは、地震直後は、むやみに動き回るのは、かえって迷惑を掛けるばかりだと思って、東京や新潟の会合予定も全部キャンセルし、加古川にじっとしていた。できるだけ電話もかけなかった。 
 1カ月たったので「神戸のサッカーは、どうしているだろうか」と思って、友人に電話を掛けてみた。受話器の向こうから聞こえてきたのは、テープに録音された声だった。
 「こちらは神戸フットボール・クラブです。謹んで震災のお見舞いを申し上げます。事務局、職員一同は全員無事で、全力を挙げて地域活動に協力しています。合間をみて、できるだけ事務局にも戻りますが…」 
 「よかったなあ」  
 と思う。  
 全員無事なのもよかったが、みんなが、救出、救援、復興へと出掛けている様子が、留守番電話で伝わってきたのも良かった。 
 神戸FCは、日本で最初に、地域に根ざし、将来のプロフェッショナルの時代を見通したクラブとして、設立された伝統をもっている。 
 その後、いろいろ回り道があってJリーグの設立には乗り遅れたが、いまは、Jリーグ入りをめざしている「ヴィッセル神戸」のジュニア部門に協力している。 
 そういうクラブだから、神戸の復興に全力投球するのは当然だろうと思う。

☆ヴィッセル神戸は? 
 被災地神戸を本拠地にJリーグ入りをめざすヴィッセル神戸は、どうしたのか? 
 実は、いま、手もとには、まったく情報がない。 
 地元の神戸新聞は、本社ビルが壊滅し、京都新聞の協力を得て発行は続けているが、ページ数は少なくなっている。それに、震災関連の緊急ニュースがいっぱいだから、悠長にマイナーな情報を載せられる状況ではないだろう。ヴィッセル関連の記事は、ぼくの目にはつかなかった。 
 それで、灯台もと暗し、という状況でいたのだが、東京の友人の方が情報を持っていた。 
 「地震が起きたら翌日には、岡山に脱出して、岡山で練習しているらしいよ」 
 「それも良かった」というのが、ぼくの感想である。 
 大災害があったときは、緊急に必要な人以外は、できるだけ早く現場から立ち退いた方がいい。出る人は、さっさと出て、技能のある救急隊や救急物資が入りやすいようにするべきである。 
 ただし、友人の口振りは、そうではなかった。 
 「元気な若者ばかりなんだから、サッカーをなげうってでも、地域活動に出動すべきじゃないのか」 
 ぼくは、状況を知らないから、何とも言えない。ただ、欧州や南米のプロ選手だったら、こんな時にどうしただろうか、と考えた。
 目に立つような救出活動をして、さらに名声を高めたかもしれない。


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