加茂周・新監督の率いる日本代表チームは、1月はじめにリヤドで開かれたインターコンチネンタル選手権で完敗した。2月には香港でダイナスティ・カップに出場する。加茂全日本は、順調に船出しつつあるのだろうか。このあたりで、代表チームの在り方を考えてみたい。
☆「二つのドア」論!
「代表チームには、二つのドアがある。一つのドアから、ひとりが出ていくと、もうひとつのドアから、新しいプレーヤーが入ってくる」
これは「日本のサッカーの恩人」といわれているデトマール・クラマーさんの口ぐせだった。
クラマーさんは、1959年に、日本サッカー協会の招きで、ドイツから、やってきた。1964年に東京でオリンピックが開かれることになっており、それまでに日本代表チームを、開催の地元で、恥ずかしくない試合ができるチームにしなければならない。それがクラマーさんの任務だった。
東京オリンピックまで、足掛け6年の努力で、クラマーさんは、日本のサッカーに革命を起こした。技術も戦術も基本から変えてしまった。それほど、当時の日本のサッカーは世界から遅れていたわけである。
技術や戦術だけでなく、考え方も変えた。代表チームの在り方についての考え方も変えた。
その当時、代表チームのキャプテンには、最年長のプレーヤーが選ばれていた。
これは、当時のサッカー協会の実力者の哲学から出ていた。「年長者を立ててチームの結束を」という考えだったのだろうと思う。年功序列重視の温情主義である。
これに対して「経験があり、功績の大きかったプレーヤーでも、力が衰えれば代表チームから出て行く。代わりに、力を付けた若いプレーヤーが入ってくる」と実力主義を主張した。
これが「二つのドア」論である。
☆「仲良しクラブ」では?
実際に、東京オリンピックの直前に、キャプテンだった功労者が代表からはずれ、若手が起用された。のちに日本代表の監督になり、さらにレッズの監督にもなった森孝慈は、そのとき起用された若手である。
これは「仲良しクラブでは勝てない」ということだと、当時のぼくは解釈した。チームワークは絶対に必要だし、チームの仲間たちが、仲良くしているのにこしたことはない。
しかし、代表チームのなかは、厳しい競争であり、対立もある。競争を乗り越えたところにできるチームワークが本物である。
競技場の外では口も利かないほど仲が悪いのに、競技場のなかでは見事なチームプレーを見せる。そんな例は、サッカーに限らず、ほかのスポーツにも、たくさんある。
新聞社のスポーツ記者だったころ、プロ野球の名門チームでも、そういう例を見たし、ヒマラヤの8000メートルの難所に挑む登山隊でも、そういう例を見た。個性の強い者が集まると「仲良しクラブ」というわけにはいかない。しかし個性の強い連中が集まって力を合わせないと大きな仕事はできないのである。
加茂周監督は、新しい代表チームに個性抜群のラモスを復帰させた。
ラモスは、一つのドアから、一度出て行ったプレーヤーである。もちろん、一度出て行った者が、別のドアから入り直してもいい。 しかし、ラモスに合わせて「仲良しクラブ」をというのでは成功しないだろう、と思う。
☆代表選手の栄誉は?
別の角度から考えてみよう。
ぼくが、まだ若かったころ、そして、いまマリノスのゼネラル・マネジャーをしている森孝慈が、もっと若かったころに、六本木かどこかのスナックで、ばったり会ったことがある。ぼくは、ちょっと酔っ払っていて勝手な熱を吹いてしまった。
「代表チームの選手を選ぶのは、監督の趣昧なんだよ。趣味で選ぶんだから、代表から外されたって、別に不名誉ってわけではないんだよ」
「日本代表が趣味で選ばれるという考えには、賛成できませんね」
若き日の森チンは、おだやかだがきっぱりと抗議した。
そのとき、ぼくが言いたかったことには、三つのポイントがある。
@代表チームの監督は、自分の考えで選手を選んで、自分の考えに合ったチームを作るべきである。
Aサッカーは、いろいろで、そのときの代表チームの監督の考えとは違うサッカーもある。
B代表選手から外されたのは、監督の考えとは違うタイプだというだけのことで、別に不名誉ではない。
要するに、一つのドアから出て行くケースには二つある。力が衰えた場合もあるが、監督の趣味に合わないから出て行く場合もある。
というわけでラモスを戻そうが、武田を外そうが監督の勝手だ、とぼくは言いたいわけである。
もちろん、結果には監督が責任を持ってもらわなければならない。
ダイナスティ・カップで、加茂全日本が、どういう結果を残すか、ぼくは、大いに注目している。
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