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サッカーマガジン 1994年12月7日号

ビバ!サッカー

金子勝彦氏を励ます会

 Jリーグ発足の前に、日本にサッカーを普及させてきた地道な仕事があった。1968年以来、一時の中断はあったが、ずっと海外のサッカーを紹介し続けてきたテレビ東京の番組もその一つである。金子勝彦アナウンサーによる、この番組には、いろいろの思い出がある。

☆ビバが表彰した番組!
 「テレビ東京の」というより「ダイヤモンド・サッカーの」と言ったほうが分かりやすいかもしれない。テレビのサッカー中継でおなじみの金子勝彦アナウンサーを激励する会が、11月14日に東京の赤坂プリンスホテルで開かれた。
 ぼくは兵庫県加古川市の勤務先で前日まで学園祭があり、翌日は授業があったのだが「このパーティーには出なければ」と、新幹線飛び乗りの日帰りで駆け付けた。
 金子さんは、サッカーだけでなく、いろんなスポーツを手懸けてきた。だから「励ます会」の会場は、いろいろなスポーツのお偉方であふれ返っていた。ぼくが駆け付けようが、駆け付けまいが、なんの影響もないが、それでも「ぜひ出席しよう」と思い入れたのには理由がある。
 その一つは、金子さんと岡野俊一郎氏の解説によるサッカー番組に、サッカー・マガジンの1971年12月号で感謝状を出したことである。これが、きっかけになって、その後、ビバ!サッカーで「サッカー大賞」を出すことになった。いわば「サッカー大賞」第1号である。
 ご存じだと思うが、ビバ!サッカーの表彰は、賞金も賞状もなく、ただ誌上に功績を記録するだけではあるが、ぼく自身の意見では、日本でもっとも信用できる賞である。
 かつて、ぼくが表彰したことは誰も覚えていないだろうと思ったら、番組のディレクターだった寺尾皖次さんが「あのときは、どうも」と会場で礼を言ってくれた。
 いや、駆け付けたかいがあった。

☆番組のはじまりに縁が!
 思い入れのもう一つの理由は「ダイヤモンド・サッカー」には、始まるときから縁があったことである。
 ぼくの出た大学のサッカー部の大先輩に、伝説的な名選手だった篠島秀雄という方がいた。この方を「日本サッカー協会の会長に」という動きがあって、ぼくも、その端っこでお先棒を担いでいたことがある。
 そのころ、三菱化成の社長だった篠島さんがロンドンに出張して、BBCテレビのサッカー番組を見た。そして「これを日本に輸入してサッカー振興に役立てよう」と言い出した。それが「ダイヤモンド・サッカー」のはじまりだった。
 そのフィルム輸入を担当した会社の社長は陸奥陽之助さんだった。明治時代に外務大臣を務めた元勲、陸奥宗光の孫にあたる方である。
 その陸奥社長に、当時、朝日新聞にいた中条一雄さんと一緒に呼ばれて、フィルムについての意見を求められたことがある。
 たまたま、ゴールキーパーのファイブ・ステップ・ルールが変わった境目の年だった。1年遅れで放映するというので「これは古いルールの試合だからダメですよ」と、中条さんもぼくも反対意見を述べた。
 「いや、スポンサーが決まっているんだから、それはいいんだ」と、陸奥社長は平然としていた。スポンサーは、もちろん篠島社長のお声がかりで三菱グループだった。
 サッカー言論界のエース2人の反対にもかかわらず、番組はスタートし、金子アナウンサーの名声は、ますます高まったのだった。

☆ワンツー・リターン!
 金子さんの仕事で、もっとも印象に残っているのは「ワンツー」という言葉を、番組のなかで、どんどん使ったことである。短いパスをダイレクトでつないで突破する攻めが、それ以前に日本になかったわけではない。
 「ワンツー」という英語の表現が日本で知られていなかったわけでもない。ぼく自身、1970年のワールドカップの戦術の本を翻訳したときに「ワンツー」という言葉を紹介している。しかし、日本の読者には分からないのではないか、と心配して余計な注釈を付けたりした。
 ところが金子アナウンサーは「ワンツー」を注釈なしで連発した。
 「画面と一緒だから、やれるんだよ」と、解説の岡野さんが、ぼくに説明してくれたことがあるが、それにしても、こういう新しい言葉や考え方を日本に紹介するのに、金子アナウンサーの大胆な表現が、大いに貢献したと思う。
 この話は、ずっと前にビバ!サッカーで書いたことがある。
 そのときは、金子アナウンサーの「ワンツー」を評価しているのは、ぼくだけだと思っていた。
 ところが――。
 金子さん自身に「ワンツー」への思い入れがあるらしい。
 金子さんは、テレビ東京を退職して自分の事務所を作った。その会社の名前がなんと「ワンツー・リターン」である。
 テレビ東京でワン。励ます会を壁にツー。金子勝彦のゴールは、まだこれからである。


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